小鹿田焼は、18世紀初頭、天領であった日田の代官が、住民の生活雑器を賄うために興した窯です。秋月藩の小石原から招聘された陶工によって開かれました。市場が日田の領民だけに限られていたので、わずかな窯元によって営まれてきました。しかも、必ずしも作陶向きの土があったわけではなく、随分と手間暇をかけて粘土を仕上げる必要もありました。それが良い風合を出すとも言えますが、窯元が増えない要因でもあったのでしょう。素朴な生活雑器であった小鹿田焼が脚光を浴びるのは、昭和初期、柳宗悦によって見いだされたからでした。小鹿田焼という名称も、柳が命名したと聞きます。
小鹿田焼が全国に知られ、需要が増したのは、湯布院温泉の人気が高まり、訪れる人が増えたからだと思います。由布岳の麓に位置する湯布院は、もともとひなびた温泉だったようです。大正期、行政区画整理で別府十湯から外れたものの、道路や鉄道の整備も行われたようです。戦後の高度成長期になると、全国は、空前の旅行、レジャー・ブームに沸きます。熱海・別府はじめ、名だたる温泉地は、団体客受け入れのために大箱ホテルの建造を進めます。そのなかで、湯布院は、まったく別の道を選択します。欧州の保養温泉地を見習い、自然と環境を守りながら、いわば癒やしの温泉を目指しました。
山向こうの別府でどんちゃん騒ぎが続く中、それは難しい判断だったと思います。湯布院が、ダム建設によるダム湖の観光地化、温泉街の歓楽地化、ゴルフ場建設といった構想を、ことごとく退けた背景には、岩男頴一という名町長がいました。1975年に発生した大分県中部地震で大きな被害を受けた湯布院は、復興に向けて、音楽祭や映画祭といった文化イベントを行い、知名度を得ていきます。1987年のリゾート法が制定され、開発の波は湯布院にも押し寄せます。しかし、町は条例を作り、町を守ります。その後、バブル崩壊と共に、団体旅行ブームは去り、個人旅行の時代が到来します。大箱を抱えた温泉地が凋落していくなか、ついに湯布院の時代がやってきます。
いまや湯布院は、規模は小さいながら、全国屈指の人気温泉地となりました。癒やしを与えてくれる上質な温泉宿は、なかなか予約が取れないことでも知られます。私が、家族と泊まったのは「ゆふいん月燈庵」ですが、広い森のなかに離れが点在する良い宿でした。湯布院御三家と呼ばれる亀の井別荘・山荘無量塔・玉の湯は、全く予約できませんでした。月燈庵も、御三家も、落ち着いたたたずまいのなかに、上質なモダン・テイストを取り込んだ、とてもおしゃれな宿になっています。湯布院は、間違いなく、日本の今日的な温泉宿の方向性を決めた町であり、小鹿田焼は、そのテイストを見事に体現していると言えます。(写真出典:hibinokurashi.com)