アルバム名:Otis Blue(1965) アーティスト:Otis Redding
今も昔も、”King of Soul”と言えば、オーティス・レディングを指します。オーティスは、1962年、21歳のおり、スタックス傘下のヴォルトからリリースした”These Arms of Mine”がヒットし、一躍、注目を集めます。そして、わずか5年後の1967年、自家用飛行機が墜落し、返らぬ人となりました。享年26歳。死ぬ3日前に録音した”The Dock of the Bay”は、ビルボードのヒット・チャートで全米No.1となり、今も、サザン・ソウルを代表する曲というに留まらず、R&Bの不朽の名作として記憶されています。アルバム”Otis Blue”は、1965年にリリースされ、R&Bのアルバム・チャートで1位を獲得しました。オーティスのアルバムのなかでは、最も評価の高い歴史的名盤です。既に絶大な人気を誇るオーティスでしたが、このアルバムでは、自作3曲、盟友サム・クックの作品3曲の他に、テンプテーションズの”My Girl”、ウィリアム・ベルの”You Don't Miss Your Water”、あるいはローリング・ストーンズの”Satisfaction”といったヒット曲もカバーします。しかも、カバー曲は、Satisfactionですら、オーティスのオリジナル曲かと思うほど、彼の世界が小気味よく展開されています。Satisfactionのカバーは、ストーンズのオリジナルが発売された1ヶ月後に録音されています。さる評論家は、ストーンズがオーティスをカバーしたのだと誤解し、キース・リチャーズは、オリジナルのアレンジが気に食わず、オーティス版のように演奏したかったとも語っています。
R&Bの新たな地平線を確立したオーティスは、さらなる高みを目指していたのでしょう。このアルバムは、人種の壁を超えたR&Bの立ち位置を目指した最初の試みだったと思われます。その後、オーティスは、周囲の反対をよそに、LAのウィスキー・ア・ゴー・ゴーやモントレー・ポップ・フェスティバルに出演します。ロック・ファンの前で黒人シンガーが歌うことなど皆無という時代でしたが、観客の心をしっかり掴みます。そして、それらの試みは、R&Bを超えたR&Bの傑作”The Dock of the Bay”へとつながっていきます。従来のR&Bと違いすぎることから、周囲はリリースをためらったと聞きます。ただ、当人は、俺の初めてのNo.1ヒットになる、と予言し、死後でしたが、まさにそのとおりとなりました。
強烈なリズム感、力強いシャウト、正確なピッチで歌いあげるバラード等も、オーティスの魅力です。しかし、オーティスの、少しザラついた声、メリハリある強弱で表現する歌い方は、伝統的なR&B歌手とは異なる独自性を生んでいます。オーティスが、人種の壁を越えた存在になった要因の一つかも知れません。Satisfactionのカバーを提案したのも、The Dock of the Bayを共作したのも、スティーブ・クロッパーです。彼は、同じ白人のベーシストであるドナルド・ダック・ダンと共に、スタックスのスタジオ・ミュージシャンとして、あるいはブッカーT&MG'sのメンバーとして活躍しました。1966年、オーティスのロンドン入りを迎えたのは、ビートルズが手配したリムジンでした。”The Dock of the Bay”は、ビートルズの”Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band”に刺激された曲とも言われます。
”The Dock of the Bay”は、絶望的な歌詞なのに、何故か癒やされます。人間や人生に対する共感や慈愛がベースにあるからだと思います。それは、当然、人種を越えた普遍性を持っています。オーティスが、”Otis Blue”で歩み始めた道は、そこが到達点だったように思えます。涅槃の境地に達したオーティスが死ぬのは、ある意味、必然だったのかも知れません。ロックンロールを生んだメンフィスという街、サザン・ソウルを生んだスタックスというレーベル、そこは黒人音楽と白人のセンスが出会った場所です。人種の壁を超えた時、新しい音楽が生まれます。(写真出典:amazon.co.jp)