有名な「爆弾三勇士」です。人命の軽視は、後の神風特攻隊にもつながる日本軍の伝統のようにも思いますが、当時は、まだそのような風潮はなく、自爆攻撃に、日本中が驚かされたようです。それだけに、この英雄的行動は、国民を熱狂させます。普通に考えれば、軍部とマスコミが、国民を煽ったとしか思えません。ところが、実際には、ごくシンプルな第一報に国民が過剰に反応し、軍部とマスコミがその後を追う形で展開していったようです。国民の反応を背景に、関連報道は過熱し、巨額の弔慰金が寄せられ、緊急出版が相次ぎ、映画・芝居・歌が多数作られ、あやかり商品が出回り、ついには教科書で賛美されることになります。日本が軍国主義へと向かうなか、爆弾三勇士は、まさにブースターとなったわけです。
国民の熱狂の背景には、世界恐慌によって疲弊した日本社会の惨状があったのでしょう。そういう意味では、爆弾三勇士の熱狂も、軍部による満州進出も同根だったと言えます。 関東大震災や金融恐慌の傷が癒えぬまま、世界恐慌に直面することになった日本は、生糸中心に輸出が激減、株価は暴落、企業倒産が相次ぎ、失業者が街にあふれます。同時期に行われた金解禁の影響もあり、深刻なデフレも進行します。特に農村部のダメージは大きく、農作物は売れず、価格も低下、そこへ冷害による凶作、三陸津波にまで襲われ、壊滅的とも言える状況に陥ります。食べるものにも事欠き、少女たちの身売りも横行します。国民にとって、満州は避けがたい選択肢であり、爆弾三勇士は、闇を照らす光明だったのでしょう。
爆弾三勇士に関する事実は、巷間伝わる話とは、多少異なるようです。決死隊とされますが、実際には、バンガロール爆薬筒を鉄条網の下に設置し、点火して戻るというのが手順だったようです。しかし、鉄条網の下で点火する余裕がなかったことから、予め点火して突撃したようです。それでも帰還する時間はあったようです。三勇士が爆死したのは、途中で被弾した兵士が倒れ、そこで時間のロスが生じたためだったようです。再度、立ち上がって突撃させたのは、上官の命令でした。上官は、爆死の可能性を十分に認識していたと思われます。三勇士が決死隊を志願したという話も後付けということになります。このあたりの事情は、軍部も把握しており、記録にも残っているようです。ただ、それを声高に言える状況ではなかったのでしょう。
日本軍の人命軽視の風土を生むことにもなった爆弾三勇士ですが、上海事変では、「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓のもとになったとされる事案も起こっています。空閑昇少佐の自決です。負傷して人事不省に陥った空閑少佐は、国民党軍に助けられ、捕虜交換で日本軍に戻されます。上官の供養のために、自身が捕虜になった場所へ戻った空閑少佐は、そこで拳銃自殺を遂げます。空閑少佐の自決は、マスコミと国民の間で、美談としてもてはやされ、後の戦陣訓へとつながったという説もあります。軍国主義の時代を象徴する形となった爆弾三勇士も、空閑少佐も、痛ましい戦争の犠牲者であったことは間違いありません。ちなみに、爆弾三勇士が爆破した鉄条網の穴から突撃した日本軍は、廟行鎮の制圧に成功しています。(写真:芝・青松寺にあった三勇士の記念碑 出典:asahi.net.co.jp)