2022年7月19日火曜日

言文一致

二葉亭四迷
京都の人たちは、日本語が上手いな、と思わされることがあります。そう思う理由は、語彙の豊富さにあります。京言葉が持つ語彙の奥深さもありますが、知ってはいても使うことがほぼ無いような言葉がスンナリと出てくることがあります。さすがに都の人は違うものだと関心します。対して、TVで見かける若い人たちの語彙の貧弱さは驚くべきものがあります。何でも、ヤバっ、かわいい、と言って済ませる傾向があります。それを”国語の乱れ”という人たちも多くいます。ただ、それは乱れではなく変化であり、時代とともに変わるのが言葉だとすれば、至って自然なことなのかも知れません。

昨今の語彙の変化は、流行語、外来語、新語、専門用語等による、という説もあります。そのとおりでしょうが、それが時代の変化なのだと思います。ただ、新しい言葉が生まれる一方で、語彙全体が減少している傾向もあるように思えます。では、江戸時代、長屋の熊さんや八っあんの方が、より豊かな語彙を駆使していたかと言えば、そうでもなさそうです。要は教育や教養の問題でもあり、言葉は、時代の移り変わりとともに、コミュニティのあり方によっても、大きく変化するわけです。とは言え、語彙が少なくなってきたのは事実だと思います。そして、それは書き言葉、つまり文語が非日常的になったことが最大の原因だと思います。

明治の言文一致運動は、言葉を民主化した大革命であったものの、一方では、平安から続く文体のみならず、多くの美しい言葉も失わせたとも言えるのでしょう。言文一致とは、言葉を変える運動ではなく、文章を口語体で書くという運動です。私は、能・狂言をよく観ますが、口語で語られる狂言を理解するのに、字幕の必要はありません。もちろん、室町期の言葉には、耳慣れない言葉や使い方もありますが、意味不明ということはありません。対して、能楽で使われる文語体の謡には、字幕を必要とすることが多くあります。文語は、そもそも渡来文化の漢字で構成されており、その誕生の時から口語とはまったく異なり、いわば外国語だったわけです。

言文一致の動きは国文学の世界からはじまり、物集高見が「言文一致」(1886)において、啓蒙的観点から、その重要性を説きます。その後、言論界に広がり、文学界からは、写実主義の影響を受けた二葉亭四迷の「浮雲」(1887)、あるいは山田美妙の「武蔵野」(1887)が発表されます。二葉亭四迷は、言文一致体で執筆するにあたり、初代三遊亭圓朝の口座筆記を参考にしたとされます。言文一致は画期的でしたが、一気に広がったというわけではなく、行きつ戻りつしながら、普及していったようです。官界や軍部、特に法曹界では、言文一致など、全く論外だったようです。結局、言文一致が完成されるのは、敗戦後だったと言います。さほど昔の話でもなかったわけです。

戦前までの日本の体制が否定され、いわゆる民主化が進み、アメリカ文化が大量に流れ込んだ混乱の時代に、言文一致が完成されたことは興味深いと思います。ある意味、外圧によって言文一致が進んだとも言えるのではないでしょうか。GHQによる国粋主義の否定は理解できるとしても、その際、文語に根ざした語彙や表現までもが否定されたという面もあったように思えます。そのことが、端的に表れているのが、教科書だったと思われます。今更悔やんでもしょうがないのですが、誠に残念なことだったと思います。。ただ、近年の俳句ブームなどは好ましいことだと思いますし、時代劇なども、妙に現代的な言葉使いにせず、あえて往時の言葉を使うようにすることで、多少なりとも失った文化を回復できるのではないでしょうか。(写真出典:web-trans.jp)

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