捕虜は、北朝鮮兵士10万人だけではなく、中共義勇兵2万人、北朝鮮軍に強制徴募された韓国人兵士、北朝鮮軍に協力した韓国民間人の計5万人も収容されていました。まるで朝鮮戦争の縮図が、巨大収容所内に出現したようなものです。当然、捕虜のなかで北と南の対立が発生し、主導権争いが繰り広げられます。空前の規模に加え、ジュネーブ協定も想定していない内部対立と、まさに前代未聞の収容所の管理に、国連軍の主体である米軍は大いに苦慮します。看守の数が、圧倒的に不足していたこともあり、国連軍は、収容所の周囲だけを警備し、内部へは、ほとんど立ち入りませんでした。これが、収容所内の南北対立を過激化させる要因ともなりました。
朝鮮戦争では、同じ民族同士の戦いの特徴でもあるスパイ活動や破壊工作が頻発します。収容所にも、北朝鮮軍司令部から、指示が届くだけでなく、反乱指導者や連絡要員も送り込まれます。捕虜の送還に関するスクリーニングが開始されると、対立は頂点に達します。スクリーニングとは、北に帰りたいか否かという意思を捕虜個々人に問うことです。北朝鮮は、スクリーニング無しで全員帰国を主張します。収容所内で反共側に立っていた捕虜にとって、それは死刑宣告のようなものです。朝鮮戦争の休戦協定は、1953年7月、国連軍、北朝鮮軍、中国軍の間で成立しますが、交渉自体は、1951年から開始されています。交渉が難航した理由は、スターリン、毛沢東、そして韓国の李承晩の反対があったためですが、捕虜の扱いも大きな争点でした。
北朝鮮軍に強制的に協力させられた韓国人捕虜たちが、北への送還を希望しないことは当然です。ただ、なかには、北に協力したことで、もう南に残れないという人たちも少なからずいたようです。一方、韓国国内に収容されていた北朝鮮人・中国人捕虜12万人のうち、相当数が、北への送還を望んでおらず、これが交渉を難しくした面があります。北朝鮮と中国は、国連軍によるスクリーニングが恣意的に行われていると非難します。同時に、北朝鮮軍司令部は、巨済島収容所での反乱も指揮していきます。戦時捕虜の任務は、後方攪乱と言われます。巨済島収容所の場合、反乱は、イデオロギーの違いによる捕虜同士の争いという特殊な側面も持っていたわけです。
ネット上で見る限りですが、巨済島収容所に関する書籍や記録が少ないことに驚かされます。これだけ多くの人が収容され、かつ歴史上例を見ない特殊な状況を考えれば、もっと多くの経験談や研究があってもいいように思います。ただ、何が起きていたかということに関しては、北側、反共側の水掛論に終始する可能性もあり、また、暴露合戦は、あまりにも生々しく、多くの人びとに影響を与える懸念もあります。休戦後、韓国には厳しい反共体制が構築され、一方ではスパイ戦も絶えず、とても収容所に関する話などできる状況ではなかったのかもしれません。(写真出典:britannica.com)