2022年7月31日日曜日

駄菓子屋

世界中に駄菓子の類いは存在するのでしょうが、”駄菓子屋”は日本独特の文化だと思われます。海外では、キオスク、タバコ屋、新聞屋等に、駄菓子もおいてありますが、決して子供だけがターゲットの店ではありません。駄菓子自体は、江戸期、砂糖の国内生産の開始されると、ほどなく誕生したようです。茶道などに用いられる上菓子に対して、雑穀類を使った安価な菓子は駄菓子と呼ばれました、また、田畑で働く際のおやつとして田菓子と呼ばれたとも言われます。各地で、様々な駄菓子が作れられ、街道の発達とともに、全国に広まったようです。江戸期、駄菓子の販売は、飴売りなど行商によって行われていたようです。他に、縁日の露店での販売もありました。 

駄菓子屋が誕生した経緯は、はっきりしていません。江戸町内の番所で小使役をしていた人たちが、番所近くの自宅で菓子や玩具を商う風習が生まれ、番太郎小屋と呼ばれていたようです。これが駄菓子屋になったという説もあります。駄菓子屋は、明治後期には広く存在していたようです。その頃、菓子類も扱うようになった雑貨屋に子供たちが集まるようになり、おのずと駄菓子屋へと変化していったとも言われています。いずれにしても、その背景には、明治期の工業化の進展とそれによる都市部への人口流入があるものと思われます。サプライ・サイドでは、菓子製造の工業化によって、安価な菓子類の供給が可能になったわけです。また、店舗への改装コストも安く済みました。

一方、デマンド・サイドでは、学制の整備による尋常小学校の誕生が大きな要因だったのではないかと考えます。つまり多くの子供たちが、毎日通る通学路の誕生です。そして、駄菓子屋が成立する大前提は、学校帰りの子供たちがお金を持っていたことです。いわゆるお小遣いの普及です。駄菓子屋は、繁華街や高級住宅街ではなく、下町の住宅街で生まれたものです。工場労働者が増えたことで、子供の面倒を見る親の時間が失われ、一方では安定した現金収入を得られるようになったことから、子供へお小遣いをあげる習慣が広まったのではないかと思います。しかし、ここまでの背景であれば、日本の独自のものとは思えず、先進国なら同じだったはずです。

駄菓子屋最大の特徴は、駄菓子にあるのではなく、そこに子供たちだけの世界があったことではないかと思います。駄菓子屋が日本独自の文化になり得たのは、子供たちが、子供たちだけで自由に過ごせる時間と環境があったからではないかと思います。欧米では、親が同行せずに、子供だけで店に行き、買い物することなど考えられません。子供の安全に関する認識が大いに違うわけです。NYにいた頃、夕方、子供たちだけを家に残し、ご主人を駅に迎えにいった奥さんが、チャイルド・アビューズ(幼時虐待)で、警察に通報されたという話を聞きました。日本の当たり前が通用しないから気をつけろ、と先輩に言われたものです。欧米社会の特徴でもある個人主義や法治主義が色濃く反映されているとも思います。

日本の場合、稲作文化のなかで強固に培われたコミュニティの結束が影響しているのでしょう。つまり、子供たちは、各家庭で育てられるというよりも、コミュニティ全体で守り、育てるものという認識が、潜在的に共有されていたと思われます。かつて急速に都市化した日本では、農村部のコミュニティ意識が都市部にも持ち込まれていたのでしょう。都市化が進めば、当然、それは失われていきます。1991年には約7万軒あった駄菓子屋が、2016年には1.5万まで減少しているようです。少子化、過疎化、コンビニの誕生、スナック菓子の普及等が、その要因と言われます。加えて、都市化が進み、文化が欧米化されるなか、日本の農村的コミュニティが崩壊したことが、駄菓子屋の減少につながっているものと考えます。(写真出典:ikishuppan.co.jp)

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