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「包晴天」の包拯 |
7世紀初頭に、聖徳太子によって作られたという十七条の憲法の第5条は、官僚の賄賂を戒める内容となっています。古代日本に限らず、世界中が、大昔から同じ問題を抱えていたはずです。売春婦を、世界最古の職業と言いますが、官僚による賄賂は、世界最古の腐敗と言えるのかも知れません。古くから官僚と庶民という構図を持つ中国には「清官」という言葉があるそうです。その存在こそ、官僚の腐敗が多いことの証左でもあります。中国では絶大な人気を誇るものの、日本ではさほど知られていない偉人の一人に「包拯(ほうじょう)」がいます。11世紀の北宋の時代、科挙に合格した廬州、現在の安徽省出身の官僚です。清官を代表する人として知られ、中華圏におけるその知名度は、諸葛孔明や関羽に引けを取らないとまで言われます。
包拯は、1027年、29歳で科挙に合格し、一旦任官しますが、高齢であった両親の面倒を見るために、退官します。その後、両親は亡くなり、喪が明けた包拯は、38歳で、再度、任官します。勤勉で公平な執務ぶりが評価され、最終的には、北宋の枢密副使として政権中枢にまで登り詰めています。開封府尹代理という、いわば都の行政長官代理を務めていた頃には、厳格に賄賂を摘発し、相手が権力者であっても恐れなかったとされます。民衆の間では「閻魔の包拯がいる限り賄賂は通用しない」とまで言われたそうです。しかしながら、包拯は、あくまでも一官僚に過ぎず、記録は残っていても、実に簡略なものだけだと言われます。包拯の名が、広く世間に知られることになったのは、没後のことでした。
没後200年近く経った南宋末期、包拯が冥界を仕切っているという噂話が流布します。以降、包拯は、講談や芝居の人気演目となり、様々なエピソードが創作され、話は膨らんでいきます。清官の鑑とされ、鉄面無私という言葉も生まれます。また、閻魔大王と包拯がだぶり、芝居における包拯は、黒い顔、眉間に三日月型の傷が定番となりました。モンゴルに圧迫されていた南宋は崩壊直前でした。政府に対する不満、存亡の危機にあっても汚職まみれの役人に対する不満の現われだったのでしょう。その後も包拯人気は衰えず、1970年代から台湾で制作された「包晴天」というTVシリーズは、中華圏で知らない人はいないという大ヒットとなりました。広大な中国を統治するには、中央集権体制は必須であり、それは官僚上位の社会に直結します。中国史は、官僚の横暴が反乱や革命を起こすという歴史の繰り返しです。
思えば、包拯の話は、大岡政談に酷似しています。大岡越前守忠相は、実在した旗本です。そのキャリアのなかで江戸町奉行も務めています。享保の改革の実を挙げるべく活躍しています。また、裁判の見事さでも知られ、名奉行と呼ばれていたようです。ただ、大岡政談はじめ、後の芝居や講談等々で語られるエピソードは、ほぼすべて後代の創作であることが知られています。包拯も大岡越前も、官僚に対する庶民の不満の現われです。もちろん立派な官僚も少なからず存在しますが、古今東西、役人に対する庶民の不満がなくなることはないのでしょう。(写真出典:nestia.com)