2022年7月6日水曜日

烏帽子

衣服を身に纏う動物は人間だけです。遺伝子に寄らない素早い環境適応という人類の優位性を実現しています。衣服には、寒暖や異物から身を守るという機能性以外にも、身分、集団属性、祭礼等といった社会的側面もあります。そのなかでは、装飾という発想も大きな存在となります。機能性から見れば、意味不明の服装も多くあります。ネクタイなど、その最たるものです。帽子も、衣服と同様ですが、一義的には頭部を守るために被ります。ただ、当然、社会性もあり、加えて、時代によって変わる髪形との関係もあります。私が、いつも不思議に思うのが、烏帽子(えぼし)です。烏帽子は、日本の歴史のなかで、最も長く、かつ広く利用された帽子です。

672年の壬申の乱に勝利し、翌年即位した天武天皇は、日本の統治、宗教、文化の基礎を築いたとされます。後に律令制で整備される官位相当制の原型も、天武天皇が作っています。その際、衣服に関する規定も整備され、冠り物についても、公式の場では冠、私生活の場では烏帽子の着用が定められたようです。いずれも唐から渡った文化が原型になっています。その後、烏帽子は、身分に応じて、形状、材質も含め、多様化が進み、社会に定着していったようです。室町時代末期には、武士の髪形が変化したこともあり、形骸化し、儀式等での着用に限定されるようになりました。現在でも、宮廷儀式等で着用されますし、学生帽も、デザインの原型は烏帽子だと言われています。

往時、男子たるもの、常に烏帽子を着用すべし、とされていたようです。例え、丸裸になったとしても、烏帽子だけは着けていなければならない、つまり露頭はいけないというのが常識だったようです。なぜ烏帽子が社会規範の領域にまでなったかのか、実に不思議だと思います。機能性の問題でないことは確かです。また、儀礼上の問題でもありません。どうも意味不明です。もちろん、20世紀におけるネクタイ着用も、流行ならば理解できますが、マナーの領域にまでなったのは不可解と言えます。法制化されたわけでもなく、何か契機になった事案があったわけでもありません。烏帽子も、ネクタイ同様、知らず知らずのうちに常識化していたということかも知れません。

また、烏帽子の形状は、多様に変化しています。基本形は、公家等でおなじみの長い立烏帽子です。髪形との関係もあって、背が高くなっていたのでしょう。しかし、活動的ではないので、あらかじめ途中で折り込んだ風折烏帽子が生まれ、さらに折り込みを増やして、折烏帽子、侍烏帽子となります。大相撲の行司が被る烏帽子にその姿を見ることができます。さらに、武士の髪形が変わると、後頭部の高さも不要になり、舟形烏帽子へと行き着きます。しかし、大きく変化しながらも、基本形は立烏帽子であり、それをどのように折り込むかという変化だけでした。その変化は、機能性や髪形の変遷に応じたものです。ここも大疑問です。複雑な折り方などにこだわらず、機能や髪形に応じた新たな冠り物を作れば済む話のように思えるわけです。

この異常なまでの烏帽子への執着は異様とも言えます。学生帽まで勘定に入れると、日本人は、実に1300年の長きに渡って、烏帽子にこだわってきたわけです。その最大の理由は、烏帽子が、庶民にとって天皇とのつながりを感じさせる唯一のものだったからではないか、と思います。烏帽子は、もともと貴族のものであり、宮中、ひいては天皇とのつながりを想起させます。烏帽子は、貴族の私生活から庶民に広がったわけですが、意識するか無意識かは別としても、庶民の心の中では、宮中につながる尊いものとして受け止められてきたのではないでしょうか。烏帽子は、日本における天皇制のあり方を物語っているのかも知れません。(写真出典:costume.iz2.or.jp)

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