![]() |
再現された蘇 |
つまり、日本の殺生禁止令は、始めから努力目標的であり、至って形式的なものだったわけです。仏教を国家宗教としたことにより、体裁を保つ必要もあったのでしょう。にもかかわらず、そこそこ定着していったということは、驚くべきことではないかと思えます。常に魚類が除外されていることも含め、結構、緩い禁止令がゆえに定着したのかも知れません。そこで、さらに不思議な展開を見せるのが、牛乳や乳製品だと思います。まず、牛乳は生き物ではありません。お釈迦様も飲んでおり、仏典にも記載があります。平安期までは、日本の貴族たちを中心に、牛乳は飲まれ、乳製品も食べられていました。ところが、そこから明治期にいたるまでの長い間、牛乳は飲まれていません。
その理由も、仏教の影響と言われています。ただ、仏教の殺傷戒とは関係ありません。大般涅槃経には「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す、醍醐は最上なり」という、いわゆる五味の記述があります。ここから”醍醐味”という言葉が生まれます。製法が失われているので、確かな事は分からないようですが、おおよそ、酪はヨーグルト、生酥(なまそ)はクリーム、熟酥はバターとされているようです。よく分からないのが醍醐になります。醍醐は、濃厚で、甘味があるという文献もあるようです。バターミルクという説もありますが、むしろ、熟酥はチースに近く、熟酥を熟成したものが醍醐と考える方が自然ではないかと思えます。ただ、チーズに近い蘇は加熱せず、酥は加熱したものという説もあります。
日本の牛乳事始めについては、7世紀半ば、百済から来た善那が、孝徳天皇に牛乳を献上したという記録があるようです。8世紀に入ると、酪農が文献に確認され、10世紀の「延喜式」にも乳製品の記載があります。平安期が終わると、貴族が好んだ乳製品は姿を消します。16世紀になると、宣教師や南蛮人によって再登場することになりますが、禁教令で、これも途絶えます。将軍吉宗が、馬の薬用に使ったという記録はあるものの、牛乳の一般化は、明治まで待たなければなりませんでした。1871年、明治天皇が、日に2杯の牛乳を飲むという新聞記事が出て、一気に普及していったようです。牛乳を飲む習慣が途絶えた理由は、仏教とは無関係であり、時代的に言えば、武家政権の成立と関係がありそうです。
要するに、武家によって軍馬が重宝され、牛の飼育そのものが少なくなったということなのでしょう。鎌倉以降、人荷を運ぶのも、田畑を耕すのも、牛から馬主体に変わったようです。なお、鶏卵の歴史も興味深いものがあります。鶏卵は生き物ですから、殺生戒の対象です。ところが、16世紀、南蛮渡来のカステラが人気を博すと、鶏卵は、生き物ではないという都合のいい解釈が広がったようです。栄養価の高さから珍重され、江戸期には、卵売りまで登場しています。高価だった鶏卵が、一般家庭に普及したのは、1950年代後半からだったようです。日本には、何でも仏教の影響と整理する傾向があります。確かに仏教が日本の文化の根底にあることは事実ですが、敬虔な仏教国とまでは言えないわけです。(写真出典:withnews.jp)