2022年7月22日金曜日

アンコール・ワットの夜明け

シェムリアップへ行く目的はただ一つ、アンコール・ワットを見ることです。アンコール・ワットへ行ったなら、欠かすべきではないただ一つのことは、夜明けのアンコール・ワットを見ることです。暗いうちから、アンコール・ワットには人が詰めかけ、リフレクティング・プール前は大混雑になります。席があるわけではないので、皆が立ったまま、夜が開け、朝日が差すのを待ちます。朝焼けが始まり、紅に染まった空にアンコール・ワットのシルエットが浮かぶと、感嘆のどよめきが広がり、シャッター音がしきりと響き、なかには手を合わせる人、感動のあまり涙ぐむ人までいます。富士山頂で拝むご来光と同じなのでしょう。

9世紀に成立し、インドシナ半島のほぼ全域を支配下においたクメール王朝は、15世紀、最後の首都となったアンコール・トムがアユタヤ朝に攻められ、滅亡します。クメール族は、ヒンドゥーを信仰していました。クメールの王たちは、即位のおり、そして慶事の都度、ヒンドゥー寺院を建てる習わしがあったと言います。結果、アンコール・ワット周辺には、大小、千を超える寺院があったとされます。なかでも最大の規模を誇るのが、12世紀、スーリヤヴァルマン2世が30年をかけて建設したアンコール・ワットです。その後、カンボジア王国時代には仏教寺院へと改修され、現在に至ります。アンコール・ワットは、広大なカンボジア平原を支配したクメール王朝の絶大な権力を、今もまざまざと見せつけています。

17世紀初めに、初めてアンコール・ワットを見た日本人は、これを祇園精舎だと思ったようです。四角い壕に囲まれた広大な敷地に、正方形の回廊が三層に連なり、中央の高い塔とそれを囲む4つの塔を持つ寺院は、確かに立体曼荼羅のようにも見えます。江戸幕府の海外渡航禁止令が出るまでの間に、多くの日本人が参拝に訪れたようです。当時の日本人による落書きが、今も壁に残されています。落書きは、各国の言葉で書かれており、アジア中から人が訪れていたことを示しています。大いに栄えたクメールですが、王権を巡る争い、ヒンドゥーと仏教との争いによって弱体化し、加えて寺院の建設ラッシュが財政を圧迫し、500年以上に渡ってインドシナを支配した王朝も、ついに新興のスコタイに敗れます。

アンコール遺跡には、長い間、うち捨てられてきた寺院等も多く、映画の撮影にもよく使われるタ・プローム等では、ガジュマルの木が寺院を覆っています。ただ、アンコール・ワットは、信仰を集めてきただけに、比較的保存状態はいいとされます。フランス統治下に入ると、本格的な修復が始まり、途中、内戦による被害もありましたが、1995年には、遺跡保存のためにアプサラ機構が立ち上げられ、世界中が修復に協力しています。まさに世界遺産というわけです。2019年には、世界中から660万人がアンコール・ワットを訪れたようです。シェムリアップの街も発展しつつありますが、まだまだ観光需要に追いついていない状況です。

近年、シェムリアップを訪れる中国人が急増しました。中国人は、中国の飛行機でやってきて、中国人が働く中国資本のホテルやレストランばかりを利用し、急増した中国人ガイドのみ雇うと聞きました。現地ガイドは、中国人は、一切、シェムリアップの街にお金を落としていないと怒っていました。強権政治の手を緩めないフン・セン首相の中国依存は、強まる一方です。アンコール・ワットを訪れる人は、この先もどんどん増えることは間違いないでしょうが、シェムリアップの主要通貨が人民元となり、主要言語がマンダリンになったとしても、さして驚きません。(写真出典:rtrp.jp)

マクア渓谷