聖路加病院の日野原先生が、生前、自ら経営するホスピスに関する取材を受け、最も困る患者さんは死を受け入れることができない人だと語っていました。70歳を超えれば、これから何かを成してやろうというよりも、全てを受け入れるという構えになるものなのでしょう。もちろん、そのなかには、死も含まれます。日々の目標のようなものはあったにしても、確かに抱負というのは違和感があります。若い頃は、希望が大きなモチベーションとなり、絶望は耐えがたいものです。70歳を超えると、希望も絶望も等しく、フラットに受け入れることができるようになる、と言えるかも知れません。
パンドラは、ゼウスから、箱を贈られますが、決して開けてはならぬ、とも言われます。しかし、好奇心にかられたパンドラは、箱を開けてしまいます。すると、人間にとってのありとあらゆる災いが飛び出し、世界に拡散します。ただ、箱の中には、一つ残っていたものがありました。それがエルピスです。パンドラは、それに気づかず、箱を閉めてしまいます。古代ギリシャ語のエルピスは、予兆、期待、希望等と訳されるようです。世の中は災いに満ちたが、人間の手元には希望が残された、という理解がごく一般的なのだろうと思われます。しかし、果たして、そうなのでしょうか。さほど単純な話でもないように思えます。
プロメテウスが人間に火を与えたことに怒ったゼウスは、人間に災いをもたらそうとします。そこで、人間初の女性パンドラを泥から作らせ、箱を持たせて、人間界に送り込みます。ゼウスの意図からすれば、エルピスも災いの種の一種と考えて当然だと思います。では、なぜエルピスだけが箱に残され、かつパンドラによって閉じ込められたのでしょうか。エルピスは、他の災いとは大いに異なる特徴があります。直接的ではなく、じっくりと内面から災いをもたらすという点です。つまり、希望は必ずしも叶うものではなく、希望を抱くことは、むしろ大きな絶望を生み出す遅効性の爆弾とも考えられるわけです。エルピスは、ゼウスが考えた最も厳しい災いだったのかも知れません。
パンドラの話は、紀元前7世紀に吟遊詩人ヘシオドスが記述したものが初出とされます。ヘシオドスは、エルピスが意味するものを解説していません。よって、エルピスの解釈を巡る議論は、古代から現代に至るまで続くことになりました。ただ、ヘシオドスは、パンドラの話の最後に「かくてゼウスの御心からは逃れがたし」と書いています。ヘシオドスは農民でしたが、相続を巡る不正な裁判に敗れ、土地を失います。絶望したヘシオドスは、旅に出て、吟遊詩人になりました。ヘシオドスが、何歳の時にパンドラの話を書いたのかは定かではありませんが、老境に入ってからのことだと想像できます。エルピスが、人に生きる力を与えるものだとしても、同時に絶望をもたらす面があることも十分に心得ている年齢だったのでしょう。(写真:ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「パンドラ」出典:musey.net)