2022年7月3日日曜日

「わたしは最悪。」

監督:ヨアキム・トリアー 2021年ノルウェー・フランス・スウェーデン・デンマーク 

☆☆☆☆

とても不思議な感性を持つ映画でした。原題は” Verdens verste menneske(世界で最悪の人)”です。瑞々しい映像と音楽は、水彩画のスケッチを見ているようでした。序章と終章のある13章建てという趣向が、ありきたりな重いドラマ展開ではなく、スケッチの積み重ねのような軽さとテンポの良さを生んでいます。加えて、主演のレナーテ・レインスヴェンの表情豊かな演技が、この新しい映画表現にピッタリ合っています。重苦しいドラマに仕立てるべきかも知れないストーリーを、軽やかに展開してみせることは、この映画の主題にとって、とても重要な要素だったのだと思います。

主人公の気まぐれさは、周囲の人々に困惑や苦痛を与えていきます。周囲の人々とは、かくあるべきという社会的規範とも言えます。特に、子供を持つべきということが象徴的に取り上げられています。それに対して、主人公は反発するというのではなく、違和感を覚えます。一方で、違和感を覚える彼女の特性に、周囲の人々は魅せられます。レナーテ・レインスヴェンが演じてみせる屈託のない笑顔、子供のように純粋な好奇心、困惑を隠さない表情等が、実に雄弁に主人公の人となりを語っています。周囲との違和感こそが、彼女を彼女たらしめている何かであり、同時に、周囲の人々が、彼女に魅せられる何かでもあるのでしょう。

一見すると、大人になりきれない女性が、様々な経験を経て、個人を確立していく、といった映画に見えます。ただ、主人公が感じる”違和感”は、より普遍的な人間性への誠実さでもあります。社会的な規範と人間的であることの葛藤を軽やかに描くという、難易度の高いテーマに取り組み、成功した映画だと思います。本作は、ヨアキム・トリアー監督のオスロ三部作の三作目と聞きます。他の2作は、日本未公開です。ヨアキム・トリアーの類い希な才能は、「テルマ」(2017)で世界をうならせました。北欧的な構図のなかで、スタイリッシュな映像と斬新な演出で展開される新しいホラーの世界は、強烈な印象を残しました。「テルマ」は、ホラーの形をとりながらも、ノルウェー社会が抱える葛藤が描かれていたと思います。

ノルウェーは、経済的にも、教育の面でも、寿命も、男女格差の無さでも世界トップ・レベルの開かれた国です。国連の幸福度ランキングでも、幸福度に関する国民アンケートでも、常に世界トップ・ランクにあります。一方で、自殺やアルコール中毒が多いことでも知られます。宗教的には、原理主義的なプロテスタント・ルター派が大層を占めます。常に謙虚であることが求められる社会であると言えます。しかし、表面的には調和のとれた世界であっても、個々人の内面を押し殺すことで成り立っているとも言えます。社会と個人の調和は、永遠のテーマとも言える難しい問題です。それを見事に調和させているように見えるノルウェーは、個人の内面に大きな葛藤を抱える国でもあるのでしょう。どうも、ノルウェーというとムンクの「叫び」を思い出してしまいます。

ノルウェーの一人当たりGDPは、漁業・工業・石油を背景に約9万ドルに上ります。日本の倍以上です。NATO設立時からの加盟国である一方、いまだEUには参加していません。過去、2度に渡り、EU加盟に関わる国民投票が行われ、否決されています。ただ、各種協定によりEU域内と同等の待遇を受けてはいます。悪い言い方をすれば、相応の負担もせずにいいとこ取りだけしているお金持ちとなります。ノルウェーは、かつてデンマークやスウェーデンの支配下にあり、20世紀初頭に独立します。以降、大国の思惑がうごめく地域にあって、絶妙に生き延びてきた国です。その歴史には、ノルウェーのしたたかさ、そして、ある種の頑迷さを感じます。(写真出典:natalie.mu)

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