2022年7月15日金曜日

GHQの淀君

鳥尾鶴代
本来的に”疑獄”という言葉は、白黒がはっきりしない裁判を指す言葉です。ところが、明治末期から戦後しばらくに関しては、政治が関与する大規模な贈収賄事件を”疑獄”と呼ぶようになります。ただ、一時期からは、この言葉も使われなくなりました。恐らく、1954年の造船疑獄が最後だったと思われます。残念ながら、政治も絡む贈収賄事件が無くなったわけではありません。単に、マスコミが古くさい言葉を使わなくなったのか、あるいは政治家等が検挙・起訴されても無罪とされるケースが無くなったからなのか、どうも良く分かりません。ひょっとすると、検察による起訴のあり方が変わったからなのかも知れません。

1948年の昭電疑獄は、復興金融金庫の融資を得るため、昭和電工の日野原節三社長が、多額の金品を、政界、官界にばら撒いた事件です。64名逮捕、うち37名が起訴され、時の芦田内閣は総辞職します。実は、昭和電工の賄賂は、GHQの民政局(GS)にも多く渡っていたようです。敵対するGHQ参謀2部(G2)が、GSを潰すために情報をリークし、昭電疑獄は始まったとされます。平和憲法を作り、公職追放と財閥解体を行う等、リベラルな政策を進めてきたGSは、ここで急速に勢力を失い、GSの中心人物だったケーディス大佐も帰国し、日本に戻ること無く翌年には辞任しています。米国政府の意向により、GHQの政策の主体は、民主化から反共へと変わったわけです。

多くの人々が関与した昭電疑獄ですが、”GHQの淀君”と呼ばれる女性も登場し、世間を騒がせます。ケーディス大佐の愛人であった子爵夫鳥尾人鶴代です。鳥尾鶴代は、明治の画家で貴族院議員だった下条桂谷の孫で、平民受入を始めた学習院で学びます。奔放な学生だったようですが、華族からのいじめにもあったようです。そこで、なんとしても華族になるべく鳥尾子爵と結婚します。遊興に明け暮れた子爵夫妻は、戦前、既に財産を失っていたようです。戦後、近所同士だった内閣書記官の楢橋渡は、生活に困窮する彼女に目をつけ、政財界とGHQの接待役として使い始めます。美しく、上品で、英語も堪能な元華族とくれば、まさに適役だったわけです。

ケーディスと鳥尾鶴代は、官邸でのパーティで出会い、恋仲となります。その関係は、半ば公然たるものだったようです。絶大な権力を持つケーディスへの口利きを依頼する人々が、彼女を取り囲み始めます。昭電疑獄についても、GSへの賄賂の窓口だったのではないかと疑いがかかります。彼女は、自伝のなかで、本件も含め、口利きの依頼は全て断ったとしています。ただ、逮捕された日野原社長の愛人で新橋の名妓と言われた秀駒が、金を包んで、ケーディスへの口利きを依頼してきたことは認めています。自伝や取材記事も残っていますが、信頼性には疑問もあり、GHQに関係する資料も国内にはほぼ残っていません。真実は闇のなかです。ケーディス帰国後、彼女は、バーを経営したり、企業の渉外役になったり、森コンツエルンの御曹司といい仲になったりしたようですが、1991年、79歳で亡くなっています。

敗戦直後、占領下の日本は、米国政府とGHQの思惑に振り回され、世相的には”なんでもあり”という極めて異様な時代でした。鳥尾鶴代子爵夫人は、戦後強くなった女性の象徴とも言えますが、むしろ乱世で輝く個性の持主だったのでしょう。お淑やかに接待役を務めただけでなく、ケーディスを落としたという面も否定できず、保守勢力のスパイだったという説もあります。日本の保守勢力は、G2と結託し、独裁者とまで言われたケーディス追い落としを狙っていました。結局、日本再軍備論に傾いた米国政府にケーディスは敗れます。アイケルバーガー将軍は、ケーディスを評して「空虚な理想主義者は奢りと腐敗に溺れ自滅する」と語ったそうです。日本におけるケーディスの3年間を、見事に言い得ていると思います。その”空虚な理想主義”の遺産の一つが日本国憲法であり、現在に至るまで多くの議論を残すことになりました。(写真出典:bunshun.jp)

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