「八幡の藪知らず」の起源については、江戸期の多くの文献に記載があり、いくつかの説が残されています。日本武尊(やまとたけるのみこと)の陣所跡であり、神聖な場所とされた。藪知らずの北には9世紀創建とされる葛飾八幡宮があり、石清水八幡宮から勧請された最初の場所ゆえ神聖な地とされた。10世紀、新皇を自称し、朝敵となった平将門が朝廷軍と戦った際の鬼門であった。平貞盛が将門を討伐した際、妖術をもって八門遁甲の陣を敷き、ここを将門の死門とした。また、将門の墓という説もあるようです。将門は、日本三大怨霊とされる一方、関東での人気は高く、藪知らずをはじめとして、市川にもいくつかの伝承が残っています。
黄門様として知られる徳川光圀は、これらの伝承を馬鹿げた話だとして、藪知らずに単身乗り込みます。すると白髪の老人が現われ「戒めを破って入るとは何事か、汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と告げます。顔面蒼白となって藪知らずを出た光圀は、村人たちを集め、以降、誰も入れてはならぬと命じたとされます。この伝承は、明治の初め、月岡芳年が錦絵に仕立て、広く知られることになりました。また、藪知らずのなかに、機を織る娘が見えた、という伝承もあります。娘は、血で真っ赤になった筬(おさ、シャトルのこと)で機を織っていたと言われます。
藪知らずの中心は、やや凹んでいると言われます。市川市の見解によれば、これは放生会(ほうじょうえ)に用いた池の跡と思われるということになります。放生会は、仏教の不殺生という考えに基づき、魚や鳥を放つ法会です。また、石清水八幡宮の放生会は、多くの死者を出した戦乱の償いとして行われたとされます。放生会が行われる場所は、神聖な場所であり、禁忌地とされたわけです。葛飾八幡宮の縁起、将門の乱と重ねれば、納得性の高い話だと思います。また、より現実的な説としては、ここが行徳村の飛地であり、八幡村の人々が立ち入らないよう話が作られたという説もあります。
日本で最も有名な禁忌地と言えば、宗像神社のご神体である沖ノ島ということになります。現在でも、一般人の立ち入りは禁止されており、年一回の祭祀には、神職以外の特定の氏子だけが上陸を許されます。とは言え、女人禁制、島で見たことは口外無用、島のものは小石たりとも一切持ち出し禁止とされています。沖ノ島は、朝鮮半島への海路の要所にあたり、恐らく朝廷が半島との交流を独占的に管理するために、近隣の漁民などを遠ざけたということだと思われます。いずれにしても、禁忌地にまつわる伝承は、むやみに人を入れない、人を遠ざけておくという目的で生まれたものなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)