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伊勢神宮の上棟際 |
社殿は古い方が、箔が付くようにも思えます。ただ、確実に老朽化するわけですから、新たな社殿を建造することは理解できます。特に白木作りの伊勢神宮では、それは不可避とも言えるのでしょう。しかし、建屋の老朽化だけが問題なのであれば、他にも選択肢があるように思います。最も理解しやすいのは修繕を重ねる方法ですし、建材に漆を塗る、銅板を貼る等の腐食予防策も考えられます。ところが、あえて新築が選択されているわけです。さらに、式年遷宮は、単に建屋を新築するだけではなく、社殿に収められている御装束、宝物、神具等も、すべて新しく再現されます。式年遷宮の背景には、”常若(とこわか)”という思想があるという説があります。つまり、常に新しい状態こそが、最も清浄であるという考え方です。
伊勢神宮の式年遷宮に関する諸儀式・祭事は、遷宮の9年前から始まります。まずは、建材の伐採に関わる諸儀式から始まります。同時に、御装束を織るための生糸の繰り始め、続いて織り始めの儀式も行われます。その数714種、1576点と言われる神宝類には、漆、鋳金、象眼はじめ、かなり幅広い伝統技術が使われています。その一つひとつが、受け継がれた工法によって、丁寧に、時間をかけて、寸部違わず再現されていきます。奈良・平安時代からの技法が、脈々と受け継がれてきているわけです。”現代の正倉院”と呼ばれる所以でもあります。実は、式年遷宮には、こうした伝統技術の継承というねらいもあったのではないか、という見方もあります。
だとすれば、日本国の礎を築いた天武天皇の慧眼は、まさに驚くべきものだったと言わざるを得ません。壬申の乱を経て、673年に即位した天武天皇は、部族社会とも言えるそれまでの日本を、国家としての体裁を持つ国に変えました。日本、天皇という言葉も、天武天皇時代に生まれています。663年、ヤマト王権は、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗を喫します。日本は、その勢いをかった唐が攻め込んでくることを恐れました。天武天皇は、防衛拠点の整備はじめ軍備増強、中央集権の強化、官制の整備、永続的な都と副都の建設等、政治・軍事体制の強化に努める一方、伊勢神宮の整備、仏教の国家宗教、記紀の編纂等、文化面でも国としての形を整えていきます。伊勢神宮の式年遷宮も、そうした政策の一環だったと考えられます。
極端な言い方をすれば、日本国は、外圧によって成立したということになります。式年遷宮も、唐の脅威がゆえに始まったと言えば、言い過ぎでしょうか。式年遷宮があった翌年は”御陰年”と呼ばれます。御陰年の参拝は、特に御利益があるとされますが、これも常若思想の現われなのでしょう。江戸期に3度発生した爆発的なお伊勢参りブームは”お陰参り”と呼ばれ、この御陰年に起こっています。2014年の御陰年の3月に、家族でお参りしましたが、大混雑でした。いつも混み合う伊勢神宮ですが、今でも、御陰年は、一層混み合うようです。(写真出典:shikoku-np.co.jp)