2024年2月6日火曜日

師弟

ダウンタウン
孔子の高弟・子路は、 孔門十哲の一人にも数えられます。孔子が、最も怒り、最も愛した弟子とされます。中島敦の「弟子」は、この師弟を描いた短編です。無頼の徒であった子路は、孔子を辱めようと訪れます。学問など無用だ、と言い放つ子路に対し、孔子は、君主に諫臣がいなければ正を失う、馬に鞭が、弓に檠(弓を曲げる道具)が必要なように、人も放恣な性情を改める学問が必要であると説きます。子路は、南山の竹は曲げなくても、斬って使えば犀の革をも通す、と反論します。孔子は、南山の竹に矢羽と矢尻をつければ、犀の革を通す以上の働きをするだろうと諭します。言葉に窮した子路は、しばらく立ちすくんだ後、弟子にして下さい、と頭を下げます。

多くの場合、師匠は、学問、武術、芸術等の専門家であり、弟子の指導育成が専門ではありません。弟子は、師匠の技を習うのではなく盗め、と言われます。弟子は、師匠の身の回りの世話も行うなど、封建的な関係でもあります。現代では、多くが学校や教室といったオープンな育成機関に置換えられました。ただ、芸術、工芸、古典芸能、武術等の分野には、伝統的な師弟関係が残ります。角界の師弟関係は、協会の枠組みのなかで、育成に特化しています。落語界は、伝統的な師弟関係を保っています。落語以外の寄席芸能の世界でも、制度化まではされてないようですが、師弟関係は存在します。そこに大きな変革をもたらしたのが、漫才の吉本総合芸能学院、通称NSC(New Star Creation)だったということになります。

吉本は、大人気となった紳助・竜介の新しさに、漫才界における師弟制度の限界を感じてNSCを設立したと言われます。また、師匠が、経済的理由から弟子をとらなくなったという背景もあったようです。吉本は、NSCを軌道乗せするために、一期生のダウンタウンをスターに仕立てていきます。当人たちの新しい漫才スタイルもあり、ダウンタウンは時代の寵児となります。結果、NSCには多数の応募者が押し寄せ、吉本の中核を成す人材を輩出するに至ります。一方、漫才は学校で習うものか、という素朴な疑問もあります。NSCは、育成組織というよりも、新しい才能の発掘システムのようにも思えます。応募者から授業料を取って、発掘を行うわけですから、悪魔的に賢いビジネス・モデルとも言えそうです。

吉本は、ただひたすらダイヤモンドの原石が露頭する瞬間を待てばいいということになります。あるいは、アドヴァイスは行うにしても、アマチュアが競い合って腕を上げるのを待てばいいわけです。漫才のアマチュア化と言えるかも知れません。苦労人でもあった横山やすしはじめ、厳しい師弟関係のなかで育ったベテラン漫才師たちが、NSCを目の敵にしたというのも理解できる話です。舞台とTVの相乗効果は、吉本の基本戦略です。NSCは、TVに軸足を置き始めた吉本のマーケティング・スタンスに沿っていました。それは漫才のターゲットを、劇場に通う世代から、TVの前の若者にフォーカスしたということでもあります。一方で、吉本は、劇場中心の新喜劇をしぶとく継続し、古いファン層も失いませんでした。実にしたたかなものです。

吉本と朝日放送が主宰するM-1グランプリの昨年のエントリー総数は、8,500組を超えていました。2001年の第1回大会は1,600組でした。NSCが進めた漫才のアマチュア化が拡大している証左でもあります。かつて、若い芸人たちは師匠に食わせてもらいながら、芸道に専念していました。今どきの若手は、吉本に面倒を見てもらうこともなく、ひたすらアルバイトに精を出しているようです。かつて、芸人の色事と言えば、玄人衆が相手か業界内に限られていました。昨今では、一般人が対象となったトラブルが多いようです。これもアマチュア化がもたらした現象なのでしょう。かつては、師匠の元に通い詰め頭を下げ続けて弟子にしてもらったと聞きます。NSCは、基本的には授業料を払えば誰でも入学できます。その道に入る覚悟が違うとも言えます。NSCは、多くの若い人材を犠牲にする構造ではないか、とさえ思います。(写真出典:youtube.com)

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