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Janis Joplin |
モンタレー・ポップ・フェスティバルは、ママス&パパスのジョン・フィリップスが中心となって開催されました。ママス&パパスは、多くのヒットを飛ばし、LAの音楽界ではリーダー的存在だったのでしょう。フェスは、サンフランシスコを中心に盛り上がっていたヒッピー文化を背景に、ロック、ブルース、フォーク、R&B、民族音楽等々、実に多様なジャンルのミュージシャンが出演しています。3日間で、30組超が出演し、20万人の観客を集めました。その記録映像は、映画「モンタレー・ポップ」として公開されました。また、フェスのプロモーションのために、ジョン・フィリップスが作詞作曲し、スコット・マッケンジーが歌った「花のサンフランシスコ」も大ヒットしました。私もレコードを買いました。歌詞をカタカナで書き取り、懸命に覚えたものです。
モンタレー・ポップへの出演をきっかけに、全米にその名を轟かせることになったミュージシャンが3人います。R&Bの世界では既に有名だったオーティス・レディング、前年からロンドンで活動を始め、注目を集めていたたジミ・ヘンドリックス、そしてヒッピーのメッカ、サンフランシスコから呼ばれたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのジャニス・ジョプリンです。この3人は、一発で観客を総立ちにさせるとともに、全米を、そして世界を熱狂させることになります。実は、ホールディング・カンパニーは映像契約にサインしていなかったため、撮影されておらず、音源だけが残りました。関係者全員の説得とジャニスの思いもあって、急遽、契約にサインしたホールディング・カンパニーは、翌日、もう一度ステージに立っています。
テキサスの田舎町に生まれ育ったジャニスは、変人として疎外された少女だったようです。20歳になったジャニスは、テキサス大をドロップ・アウトし、サンフランシスコで音楽と麻薬漬けの日々を始めます。1966年、ホールディング・カンパニーに参加すると、そのしゃがれたダイナマイト・ボイス、黒人ばりのリズム感、歌唱力、シャウトが注目を集めます。自身が抱える孤独を絞り出すように歌うジャニスの歌はブルースがベースになっています。ジャニスの出世作ともなった「ボール&チェイン」もビッグ・ママ・ソートンの曲です。「クライ・ベイビー」、「ムーブ・オーバー」、「サマータイム」、「ミー&ボビー・マギー」等もジャニスらしさ満開ですが、恐らく最も彼女の内面をストレートに表現した曲が「リトル・ガール・ブルー」なのだと思います。2015年にリリースされた彼女のドキュメンタリー映画のタイトルにもなっています。
「リトル・ガール・ブルー」は、1935年、ロジャース&ハートがミュージカルのために書いた曲で、ニーナ・シモンのデビュー曲でもあります。大人になりきれない孤独な少女を歌っています。ステージの上では大観衆を熱狂させたジャニスですが、孤独な少女であることに変わりはなかったのでしょう。モンタレーからわずか3年後の1970年、27歳になったジャニスは一人モーテルで死にます。ヘロインのオーバードーズでした。2週間前、ジミ・ヘンドリックスも27歳で死んでいます。ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、カート・コバーンと併せ27クラブとしても知られます。さらに、オーティス・レディングもフェスから半年後、飛行機事故で26歳の生涯を閉じています。モンタレー・ポップ・フェスティバルが世に送り出した3人が、3人とも同じ年に若くして命を落としたことは、どこか因縁めいた、そして、なんとも切ない話です。(写真出典:genius.com)