2024年2月12日月曜日

創業の地

名古屋駅の桜通口を出て、北に少し歩くと、住所は則武新町になります。洋食器のノリタケ発祥の地です。今も本社やノリタケの森と呼ばれる博物館や庭園などがありますが、工場跡地の大半は、ショッピング・モールに変わっています。則武新町の北側は、西区と中村区にまたがる栄生(さこう)という地区になります。もともとは愛知郡中村の栄(さこう)だったようですが、名古屋市に編入される際、既に存在した栄(さかえ)と区別するために栄生と改称しました。1912年、豊田佐吉は、この地に豊田自働織布工場、後の豊田紡織を創業します。現在、その跡地は、トヨタ産業技術記念館として、トヨタの歴史を展示する企業博物館になっています。なお、現在の住所は則武新町となっています。

名古屋に赴任し、トヨタにもお世話になったにも関わらず、私は、産業技術記念館を訪れる機会がありませんでした。名古屋を離れて、15年になるのですが、いまだにそのことが気になっていました。今般、ついに訪れることができました。広大な産業技術記念館は、紡織と自動車の展示から成りますが、自動車エリアには製鋼に関わる展示もされており、まさにグループの歴史博物館になっています。展示は、紡織機そのもの、あるいは自動車の生産設備が中心であり、正直言って、門外漢や興味のない者にとっては、やや退屈なものです。ただ、紡織機や生産設備の巨大な現物やレプリカが展示されている様は、トヨタ・グループの技術へのこだわり、そして財力の大きさを十分以上に感じさせるものでした。

見学を終えて、出口に向かうと、大ホール周辺に、カメラ・クルーを含むマスコミ関係者と思しき人たちが大勢いました。ガードマンに、何事か、と聞くと、今日はトヨタ・グループがホールを貸し切っています、との回答。それ以上は話してくれませんでした。正面玄関にはセンチュリーが停まっていました。玄関を出て歩き始め、ふと振り返ると豊田章男氏らしき人物が車に乗り込むところでした。センチュリーが発車すると、楽屋口の方から黒いレクサスが数台続きました。夜のニュースで知ったのですが、豊田会長が、グループ・ヴィジョンを公表するために記者会見を開いたのでした。ただ、ヴィジョンに関する報道は一切なく、豊田自動織機の不正に関する豊田会長の発言のみが取り上げられていました。

ヴィジョン発表を口実に、不正に関して豊田会長がコメントする場を設ける、というトヨタ側の意図を感じます。日野自動車、ダイハツというグループ企業ながら外様企業の起こした不祥事とは異なり、本家である自動織機の不正は重大事件と言わざるを得ません。ここは社長ではなく、豊田家の人間が、世間、そしてサプライヤーに向けて、直接、語るべきところなのでしょう。記者会見場として産業技術記念館を選んだのも、単なる偶然ではないと思います。豊田佐吉が興した豊田紡織は豊田自動織機を生み出し、そこからトヨタ自動車、さらに愛知製鋼が独立しました。豊田紡績はトヨタ・グループの礎です。その創業の地で、豊田彰男氏が不正について語るということは、とても重い判断であり、重い決意だったのでしょう。

2008年5月、中日新聞は、やたら大きな見出しで「章男氏、副社長へ」と伝えました。副社長就任でこの大きな見出し、しかも苗字なし。トヨタの存在の大きさを感じさられました。その年に発生したリーマン・ショックを受け、章男氏は、急遽、社長に就任します。豊田家の人間がトップに立つことでグループの結束をはかり、リーマン・ショックを乗り切るという意思の現れです。それは見事に功を奏したと思われます。一方では、章男氏のカリスマ性が高まり過ぎて、現場現物主義に基づく活発な議論、あるは大番頭の存在といったトヨタの伝統が薄れていくことにもなったのではないでしょうか。記者会見における章男氏の発言は、その認識、反省を踏まえた、かなり踏み込んだ内容だったと思います。それが出来るのも創業家ならではのことであり、家臣団とも言えるサプライヤーをまとめあげるトヨタのお家芸とも言えます。(写真出典:tcmit.org)

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