2024年2月20日火曜日

邪馬台国は謎なのか?

三輪山
古代史は、謎に満ちあふれているわけですが、最も人気のある謎と言えば、邪馬台国と卑弥呼ということになるのでしょう。魏志倭人伝など中国の史書に記述されているにも関わらず、古事記・日本書紀には言及がないこと、そして何よりも考古学的な裏付けが一切発見されていないことから、大きな謎とされてきました。江戸期以降は、その所在地を巡る議論が盛んとなります。主に、畿内説、九州説がぶつかり合い、今も結論を得ていません。いずれの説も一長一短あるわけですが、近年、考古学的発見や科学的分析が進み、畿内説が優位に立ったようです。畿内説は、古代史のもう一つの人気テーマである「空白の4世紀」、つまりヤマト王権誕生の謎にも直結します。とは言え、依然、決定的な物証があるわけではありません。

畿内説・九州説の議論の中心となっているのは、魏志倭人伝に記載される邪馬台国に至る道程です。朝鮮半島から、対馬、壱岐を通って、松浦半島に至るわけですが、その先が問題となります。素直に読めば、邪馬台国は太平洋上にあることになります。よって方角の間違いなど様々な解釈に基づく仮説が生まれます。大昔、遠い国で、伝聞に基づき記述された資料に、どこまで正確性を求めるのか、という問題もあります。昔から私が疑問に思っていたことは、そもそも邪馬台国は”ヤマタイコク”ではなく”ヤマトコク”なのではないか、ということです。もともと邪馬台国は、ヤマトコクの当て字と理解されていたようですが、ヤマタイコクに変えたのは新井白石だったようです。日本人の通訳の発音に基づき変えたと言います。かつての魏の発音ではないわけです。ここが間違いの始まりであり、邪馬台国が謎になった根源のように思えます。

ヤマトコクが正しい読みならば、邪馬台国はヤマト王権の国と理解できます。邪馬台国なる謎の国が記紀に登場しなくて当然です。しかし、卑弥呼という謎は残ります。やはり記紀には一切登場しません。ヤマト王権が誕生するあたりまでの日本にはヒメ・ヒコ制という共立的統治形態が存在したとされています。ヒメは、祭祀、農耕、女性集団の長として機能したようです。魏の人々は、ヤマトコクを統治するヒメ・ヒコを”ヒミコ”と聞き違え、卑弥呼という漢字を当てたのかも知れません。かつ当時の中国では珍しい女王というエキゾチックな存在に過剰反応したのではないでしょうか。魏志倭人伝にも、卑弥呼の側仕えのような男子が記載されていますが、実はこれが王であり、後の天皇だったように思えます。そして、それは”ハツクニシラススメラミコト”と呼ばれる崇神天皇だったのではないかと思われます。

近年、大型建物を含む日本初の都宮として注目され、崇神天皇との関わりも指摘される纒向遺跡は、3世紀に、突如、現れています。当時の日本としては空前の規模であり、大型建造物跡、巨大な運河跡、全国各地の土器等が発見されています。よって、ヤマト王権最初の都宮とされるとともに、魏志倭人伝と時代的に符合することから卑弥呼の都ではないかという説も出ています。近くには、初の前方後円墳である巨大な箸墓古墳はじめ、古墳が多く見られます。箸墓古墳こそ卑弥呼の墓ではないかという意見もあります。また、卑弥呼が魏から贈られた銅鏡100枚と関連づけられる三角縁神獣鏡も畿内で多く発見されています。また、昨年、桜井茶臼山古墳から出土した銅鏡の破片を調査したところ、その数は100枚以上になり、うち26枚が三角縁神獣鏡だったとの報道もありました。

どうも畿内説が有力になり、卑弥呼とヤマト王権が直結し始めたようです。もちろん、確定的ではなく、反論もありますが、とても納得性の高い説のように思えます。鍵を握る纒向遺跡は戦前から調査が継続されています。2010年には祭祀に使われた大量の桃の種、2011年にも新たな大型建物跡が発掘されています。しかし、発掘が終わったのは、全体の10%にも満たないと聞きます。今後の発掘で、いよいよ古代史の大きな謎が解明されるのかもしれません。ちなみに、ヤマトとは三輪山の麓を意味すると聞きます。三輪山は、神宿る山とされ、麓には大物主大神を祀る大神神社があります。付近には、纒向遺跡、箸墓古墳、崇神天皇陵等々、多くの遺跡・古墳があります。記紀によれば、箸墓古墳は、第7代孝霊天皇の皇女であり大物主大神と結婚した倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の墓とされます。現在も宮内庁管轄であり、一切、調査は行われていません。(写真出典:oomiwa.or.jp)

マクア渓谷