自然災害や戦争を除けば、ローマ大火、ロンドン大火、そして明暦の大火が世界三大大火と言われるそうです。64年7月のローマ大火は、ローマの2/3を焼き、1666年9月のロンドン大火では、街の85%が燃え、1657年3月の明暦の大火では、江戸の6割が焼失、江戸城本丸も焼けています。焼死者は、ローマ大火の場合、奇妙なことに一切の記録がないとのこと。ロンドンでは、大火にも関わらず、たった5人。対して明暦の大火は10万7千人と記録されます。江戸で焼死者が多く出た理由は、火の回りの速さ、人口の多さ、密集度の高さ等に加え、江戸城防衛を目的に作られた町の構造が避難を阻んだからとも言われます。典型的には墨田川の橋の少なさです。なお、大火当時、ローマやロンドンも木造の家が大半だったようです。ロンドンでは、大火後、家を石造りにすることが義務づけられました。
いずれも、火元は特定されています。ローマでは、チルコ・マッシモ近くの商店街。ロンドンは、シティのプディング・レーンにあるトマス・ファリナーのパン屋。明暦の大火は、当時本郷にあった本妙寺とされます。火災が起きると、犯人探しがはじまり、陰謀説など流言飛語が広がるのは、古今東西まったく変わりません。ローマでは、皇帝ネロが、キリスト教徒に罪を被せ、処刑しています。ロンドンでは、宗教対立の最中であり、カトリックの仕業との噂が流れたそうです。江戸では、本妙寺にまつわる振袖の因縁という説が出回ります。明暦の大火が、「振袖火事」と呼ばれる所以です。
繁盛する質屋の娘・梅乃は、上野の山で見かけたイケメンに恋をし、せめてとの思いで若者の着物と同じ柄の振袖を作る。梅乃は、恋の病で死に、棺にはその振袖がかけられ本妙寺に埋葬される。寺男が、その振袖を古着屋に売る。それを買った町娘・きのも病で死に、本妙寺に埋葬される。寺男は、振袖を再度転売する。それを買った町娘・いくも死に、振袖は本妙寺に戻る。本妙寺住職は、祟りかもしれないと、振袖を火にくべ供養する。すると火のついた振袖は、誰かが着ているような姿で空に舞い上がり、江戸に大火をもたらした。
振袖の話は、25年後の天和の大火で有名になった八百屋お七の影響とも言われます。振袖話は別として、不思議なことがあります。最大級の大火にもかかわらす、本妙寺は一切お咎めがなく、防災観点から他の神社仏閣が郊外へ移転されるなか、同じ場所に復興することが許され、さらには幕府が法華宗のリーダー格の寺へと昇格させています。実は、本妙寺が、幕府の指示で火元を引き受けたという説があります。本妙寺近くの老中阿部忠秋の屋敷が本当の火元ながら、それでは幕府の威信が失われると、幕府が本妙寺に火元引受けを指示したというわけです。阿部家は、江戸期を通じ、本妙寺に多額の寄進を続けていたようです。振袖話も、本当の火元を隠ぺいするために広められたとも考えられます。
他に幕府放火説もあります。江戸も、ローマも、ロンドンでも同じですが、大火後、大規模な都市開発が行われています。防災観点も含め、当然のことだと思います。ただ、時の政権が都市開発を進めるために放火したのではないか、という陰謀説も人気なわけです。(写真出典:tokyo-np.co.jp)