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京都御所紫宸殿 |
幕末には、大阪への遷都案が出ていたようです。天皇親政を目指す薩長は、すべてを新しくしたかったのでしょうが、他に、御所が狭くて古い、京都の街も狭い、京都人はうるさい等も背景にあったようです。ところが、戊辰戦争で新しい皇居と目されていた大阪城が焼失したこともあり、にわかに江戸案が浮上します。徳川家を駿府に移し、江戸城を新たな皇居とするという案です。江戸城の広大さ、江戸が世界一の大都市だったこと、地理上も日本の中央に位置すること等が考慮されたのでしょう。
ただし、宮廷内や京都の人々の反対に配慮し、遷都ではなく、京都御所はそのままに、江戸にも御所を置く、つまり二都制が指向されました。江戸は東京に改称されたのではなく。東の都という意味で東京と呼ばれれるようになったわけです。実態を先行させ、落ち着いた頃に遷都の詔を発するつもりだったと思われます。ただ、東京の首都機能が、あまりにも早く定着したので、詔を発するタイミングも、発する意義も失ってしまったというのが実態だったのでしょう。東京を首都とする法令が定められなかったのも同じ理由と考えられます。
バブル期には、首都移転という議論が盛り上がり、候補地も絞り込まれます。東京への一極集中は多くの弊害を生んでいますし、防災上の観点も考慮すべきです。実に難しい話ですが、検討に値する議論でもあります。ただ、議論の背景には、バブルによる東京の地価高騰がありました。バブル崩壊とともに地価が下がると、首都移転という話は急速にトーン・ダウンしました。その後、地方創生という政策のなかで、省庁の一部が地方への移転を始めました。総務省の和歌山、消費者庁の徳島、今後予定される文化庁の京都等ですが、あくまでも一部機能のみです。今年のコロナ禍を受け、リスク管理の観点から、政府機能の分散という議論が起こっているようです。
20世紀以降の首都移転で成功した例は一つもない、と言われます。都市が成長を遂げてきた理由は、首都機能の所在ではなく、産業、交通、文化等が背景にあるからです。5Gを前提とすれば、リスク管理、東京一極集中の解消、地方創生といった観点から、首都移転ではなく、政府機能の分散という選択は、かなり有望だと考えます。(写真出典:discoverjapan-web.com)