2020年11月8日日曜日

「アラヤ」

2020年中国   監督:シー・モン(石梦)

☆☆☆+

東京国際映画祭でワールド・プレミアとなった「アラヤ」は、中国の若い女性監督シー・モンの初監督作品です。タイトル・バックは、重厚な大作を思わせる見事な映像から入ります。ただ、途中、ややトーンを崩すきらいがあり、ある意味、本作の傾向の一つを象徴していました。つまり、よく練り上げた脚本、しっかりとした絵コンテに基づく画面などが監督の力量を感じさせる一方、やや多くの思い入れを詰め込み過ぎた印象があります。完成時には3時間30分だったものを2時間30分まで編集し直したことが影響しているかも知れません。ただ、テーマからしても、墨絵のごとく、余計なものをもっとそぎ落とす覚悟が必要だったと思います。

現題は「無生」ですが、仏語では絶対の真理、つまり悟りを意味します。随分、重いタイトルを選択したものです。英文タイトルを「アラヤ」としたことも含め、監督の強い思い入れが伝わります。映画終盤で、舞台となった村の名が「阿頼耶村」と映し出されます。明らかに仏教で言う「阿頼耶識」を意味するのでしょう。大乗仏教の唯識論では、知覚や意識の構造を八段階とし、その最深部を阿頼耶識と呼びます。阿頼耶識は、無意識領域ですが、他の七識を生み出す根本とされます。サンスクリット語でアラヤは蔵を意味することから蔵識とも呼ばれます。ちなみに、サンスクリット語で雪はヒマ、ヒマラヤは雪の蔵という意味だそうです。

一人ひとりが認識する世界は、すべて個々人の阿頼耶識が生み出す主体的なもので、客観的存在ではありません。よって存在には実態が無く、「色即是空」となるわけです。登場人物の業が生み出す因果の絡み合う世界を、二つの実相から見せる、という試みは、唯識的であり、色即是空を伝える新たな説話を創造しようとしているかのようです。また、映画の最後には金剛経の「諸相は相に非ずと見るは如来を見るなり」という一説が挿入されます。目に見えている世界だけが世界ではないと認識できれば悟りに近い、と締めくくるわけです。

では、本作は仏教を説く映画なのか、と言えば、そうでもないように思えます。映画祭のインタビューで、監督は「阿頼耶識を、過去に捉われた村人のいるマジック・ボックスと考えた」と語っています。検閲が強化された中国映画界ですが、検閲対象は習近平、政府への直接的批判にフォーカスされ、それ以外は緩和されたようにも思えます。若い監督たちは、直接的表現を上手に避けながら、中国の現状を描いているとも言えます。本作も、共産党がコントロールできていない中国人の現状、あるいは中国社会の矛盾を象徴的に伝えているようにも見えます。

映像詩的アプローチのビー・ガン監督、そしてこの観念的アプローチのシー・モン監督といい、中国映画の新しい波は、とても面白いと思います。シー・モン監督の次回作が楽しみです。(写真出典:eiga.com)

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