為朝は、身長2m10cm、左腕が右腕よりも12cmも長く、五人張の弓、つまり4人が弓を曲げ、一人が弦を張るほどの剛弓を射ったと言われます。生来乱暴であったことがたたり、豊前国に流されますが、3年で九州全域を支配し、鎮西八郎為朝を名乗ります。九州での狼藉が訴えられ、朝廷の召喚をうけますが、これを無視。父為義が官位をはく奪されたことを聞き、上洛します。そして保元の乱では、父とともに上皇側で戦います。剛弓を武器に活躍しますが、戦さには敗れ、腕の筋を切られ伊豆大島に流されます。そこで力を盛り返した為朝は、伊豆七島を支配しますが、五百を超える追討勢に攻められ、自害します。
実は、自害したのは替え玉であり、為朝は琉球に逃れ、今帰仁の運天港に上陸した、というところから琉球の伝承は始まります。為朝とその子舜天の伝承は、1650年、琉球王朝の「中山世鑑」に正史として記載されています。ただ、これは1609年の薩摩支配後に書かれた正史であり、為朝と同じ河内源氏の流れをくむ薩摩の島津家におもねったものだとされています。ところが、為朝の伝承は、薩摩支配以前の1605年に書かれた「琉球神道記」に記載されています。他の資料等と合わせ考察すると、為朝伝説は16世紀後半に登場しているようです。
当時、琉球は1469年に始まる第二尚王朝の時代でした。200年も前の別系統の王権の箔付けをする必要性など考えられません。14世紀の三山時代から始まった中国への朝貢は継続されており、王朝にとっては大きな負担になっていたようです。王朝は、その財源確保のため、先島諸島を支配し、15世紀後半には奄美諸島へも侵攻します。ただ、反乱が相次ぎ、完全に制圧したのは16世紀末と、平定には相当苦労したわけです。そこで、大和との関係がより強い奄美を鎮撫するために、為朝伝説が生み出され、活用されたのではないでしょうか。
為朝の琉球渡り伝承は、江戸後期、曲亭馬琴が「椿説弓張月」として連載小説化し、大ベストセラーとなります。浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられますが、全体のストーリーを歌舞伎化したのは、三島由紀夫です。三島は、近代歌舞伎を良しとせず、「椿説弓張月」を使って、江戸初期の歌舞伎の復興を図ったと言われます。それにしても、源氏の一番人気は九郎判官義経なのでしょうが、鎮西八郎為朝も、もっと人気があって然るべきだと思います。ただ、やさ男ぶり、悲劇性においては、甥っ子にはかなわないということなのでしょう。(月岡芳年「源為朝」 写真出典:ja.ukiyo-e.org)