2020年11月21日土曜日

船弁慶

静の白拍子舞
国立能楽堂の定例公演で「船弁慶」を見てきました。シテは京都の観世流片山九郎右衛門。重キ前後之替と舟唄替之語という小書の入った派手目の演出が楽しめました。平家追討で武勲をあげた義経は、東国武士の恨みをかい、頼朝から追われる身となります。西国へ逃れるために摂津国大物之浦から船を出します。厳しい船旅を考え、義経は静御前を京に帰すことにします。旅立ちに際し、別れを惜しむ静御前が烏帽子をつけて舞うのが前段。穏やかな日和のなか義経一行は船出します。船頭役の狂言方によるアシライ間の後、天気は急変、一行を平家一門の亡霊が襲います。義経に迫る平知盛の亡霊を弁慶が法力で退治するのが後段です。

情感溢れる静とスペクタルな動が一つの舞台でくっきりと分かれ、シテが静御前と知盛の亡霊を演じ分ける演出が、見ごたえのある、ある意味、分かりやすい作品となっています。静御前の立烏帽子をつけた白拍子舞が惜別の情をよく伝え、知盛の亡霊の荒々しさは囃方の激しい拍子で際立ちます。舞台芸術の魅力を見事に伝える作品といえるのでしょう。観世小次郎信光の作とされます。観世信光は、世阿弥の甥の子ですが、応仁の乱で公家や武家の後ろ盾を失った能楽に、より大衆受けする演出を取り入れたと言われます。船弁慶は、その典型なのでしょう。今も最大流派を誇る観世流の基礎を築いた人でもあります。

義経は、戦術に長けた独断専行型のリーダーだったのでしょう。いわばやり手の現場リーダーです。加えて兄頼朝に認められたいという思い、あるいは源氏直流としての気位の高さもあり、それらが平家追討を成功させるとともに、鎌倉武将の恨みや妬みを買ったのでしょう。屋島から壇ノ浦の戦いで、頼朝側近の梶原景時の意見を無視したり、鎌倉武将よりも西国武将を多く用いたことが批判されます。義経の行動の背景には、源氏の本隊は源範頼が率いていたこと、あるいは急遽の参戦となったこともあり、また西国勢の土地勘ということも考慮されたはずです。ただ、東国武将にとってみれば、戦功を横取りされたという思いが強かったのでしょう。

武家政権をもくろむ戦略家・頼朝にとって、勝手に動く戦術家・義経は頭痛の種だったはずです。特に朝廷との駆け引きを展開する頼朝にとって、許可なく法王から官位を授かったり、壇ノ浦での性急な攻めで安徳天皇と宝剣を失ったことは、戦略を揺るがす失態だったわけです。義経追討は、頼朝の宿意と言われますが、現代の企業経営者たちなら、頼朝の戦略に基づく判断を支持するはずです。企業のなかにも、義経型の現場リーダーはしばしば見受けられるからです。彼らは、本社経験に乏しい場合が多いものです。鎌倉と京都がもっと近ければ、あるいは義経が頼朝の近くで育ち頼朝の戦略を理解していれば、義経の後生は随分違ったものになっていたのでしょう。

今治沖の三島にある大山祇神社で、国宝ともなっている義経奉納の鎧兜を見たことがあります。見るからに他の鎧より小さく、小柄な美男子と伝えられる九郎判官義経を実感できます。身長の低い人は攻撃的な性格が多いとも聞きます。義経もそうだったのかも知れません。ちなみに船弁慶の義経役は子役がやります。(写真出典:hakusho-kai.net)

マクア渓谷