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静の白拍子舞 |
情感溢れる静とスペクタルな動が一つの舞台でくっきりと分かれ、シテが静御前と知盛の亡霊を演じ分ける演出が、見ごたえのある、ある意味、分かりやすい作品となっています。静御前の立烏帽子をつけた白拍子舞が惜別の情をよく伝え、知盛の亡霊の荒々しさは囃方の激しい拍子で際立ちます。舞台芸術の魅力を見事に伝える作品といえるのでしょう。観世小次郎信光の作とされます。観世信光は、世阿弥の甥の子ですが、応仁の乱で公家や武家の後ろ盾を失った能楽に、より大衆受けする演出を取り入れたと言われます。船弁慶は、その典型なのでしょう。今も最大流派を誇る観世流の基礎を築いた人でもあります。
義経は、戦術に長けた独断専行型のリーダーだったのでしょう。いわばやり手の現場リーダーです。加えて兄頼朝に認められたいという思い、あるいは源氏直流としての気位の高さもあり、それらが平家追討を成功させるとともに、鎌倉武将の恨みや妬みを買ったのでしょう。屋島から壇ノ浦の戦いで、頼朝側近の梶原景時の意見を無視したり、鎌倉武将よりも西国武将を多く用いたことが批判されます。義経の行動の背景には、源氏の本隊は源範頼が率いていたこと、あるいは急遽の参戦となったこともあり、また西国勢の土地勘ということも考慮されたはずです。ただ、東国武将にとってみれば、戦功を横取りされたという思いが強かったのでしょう。
武家政権をもくろむ戦略家・頼朝にとって、勝手に動く戦術家・義経は頭痛の種だったはずです。特に朝廷との駆け引きを展開する頼朝にとって、許可なく法王から官位を授かったり、壇ノ浦での性急な攻めで安徳天皇と宝剣を失ったことは、戦略を揺るがす失態だったわけです。義経追討は、頼朝の宿意と言われますが、現代の企業経営者たちなら、頼朝の戦略に基づく判断を支持するはずです。企業のなかにも、義経型の現場リーダーはしばしば見受けられるからです。彼らは、本社経験に乏しい場合が多いものです。鎌倉と京都がもっと近ければ、あるいは義経が頼朝の近くで育ち頼朝の戦略を理解していれば、義経の後生は随分違ったものになっていたのでしょう。
今治沖の三島にある大山祇神社で、国宝ともなっている義経奉納の鎧兜を見たことがあります。見るからに他の鎧より小さく、小柄な美男子と伝えられる九郎判官義経を実感できます。身長の低い人は攻撃的な性格が多いとも聞きます。義経もそうだったのかも知れません。ちなみに船弁慶の義経役は子役がやります。(写真出典:hakusho-kai.net)