2020年7月21日火曜日

日本の翼

ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館で、Mitsubishi Zero 、つまりゼロ戦の実物を見た方も多いはずです。ドイツの名機メッサーシュミットと並んで敵国機の部屋に展示されています。かつて軍用機の生産で世界をリードした両国ですが、敗戦後、航空機の生産を禁止されます。保有する航空機はすべて破壊され、製造会社も解散、大学の航空力学の講座すら禁止されます。

三菱重工は、技術を保全するために、進駐軍の航空機のメンテナンスを受注し、とにかく飛行機に触り続けようとしました。超一流の技術者まで、簡単なメンテナンスしかできなかった日々は、実に切ないものだったと言います。航空自衛隊が発足すると、練習機のノックダウンが開始され、サンフランシスコ講和条約によって再独立した後、1957年に至り、航空機生産が解禁されます。

56年、通産省主導で輸送機設計研究協会が発足します。国内の主だったメーカー、そしてゼロ戦を設計した堀越二郎はじめ、軍用機設計で名をあげた技術者たちが再結集し、再び日本の翼が日本の空を飛ぶ日を目指します。YS11が就航したのは、64年でした。2号機は、アテネから東京オリンピックの聖火を運びました。ちなみに、Yは輸送機、Sは設計、研究協会の名前がそのまま使われたわけです。

エンジンと電子機器の国産化はできませんでした。軍用機設計者たちが作った機体は頑丈さとバランスの良さで知られる一方、重く、操縦性が悪いとも言われます。それでも信頼性は高く、海外からの受注が増えていきました。ある意味、それがYS11の終わりの始まりでした。YS11最大の問題は、機体ではなく経営にありました。日本は、あまりにも航空機ビジネスを知らな過ぎました。赤字が嵩んだYS11の生産は、73年、182機で終了。旅客機としての運用は2006年に終了しています。技術革新、環境変化の激しい時代に、飛行機を作れない空白期間が存在したことが、たたりました。

現在、三菱スペースジェットが、型式証明を目指していますが、すでに7年遅れ。自前のエンジンまで搭載したホンダジェットは、小型ビジネス機では世界一売れています。飛行機は50年ビジネスと言われます。20年で開発、30年メンテナンス、それでようやく収支トントン。空はロマンの世界とも言えます。
写真出典:jal.com

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