2020年7月22日水曜日

十九の春

那覇の国際通り周辺には、島唄を聞かせる店が多くあります。有名歌手の歌をじっくり聞かせる店もありますが、多くは観光客相手。若い歌い手の皆さんが、明るく盛り上げ、最後は、皆でカチャーシーという流れです。そこでは沖縄民謡「十九の春」も定番。ヤマトグチ(共通語)で歌われる数少ない島唄であり、よく知られた曲なので、当然の選曲だと思います。おしなべてアップテンポで明るく歌いますが、悲しい恋の唄なので、やや違和感があります。

「十九の春」の元歌は、明治末期に流行した「ラッパ節」だと言われます。兵士や労働者の目線で社会を風刺した俗謡。明治初期の軍歌「抜刀隊」の一節とも言われます。昭和初期、添田唖蝉坊がヒットさせましたが、もともと日本各地に様々な歌詞があったようです。明治末期、飢饉に見舞われた与論島の人々は、九州へ集団移住。石炭の積み出しに従事しますが、奴隷的労働、差別的取扱といった地獄を見ます。唯一の楽しみがラッパ節であり、それを元に「与論小唄」が誕生します。

沖縄本島に伝わった与論小唄は、「じゅりぐぁー小唄」になります。じゅりぐぁーとは娼婦のことで、唄は主に花街で歌われました。基本的には、男女の恋の掛け合い歌で、即興で歌われることが多かったようです。二百数十の歌詞が記録に残っていると聞いたことがあります。もともと恋歌ですが、決して悲恋の歌ではなかったわけです。後に島唄の大御所となる本竹裕助がヤマトグチで作詞、昭和50年に田畑義男がカバーして大ヒットしたバージョンは、20歳代後半と思しき(これは勝手な想像です)娼婦と妻子ある馴染み客との実らぬ恋路を歌っています。

恋の掛け合い歌を悲恋の唄に仕立てたことから、「十九の春」は沖縄の歴史を自虐的に歌っている、という説が出てきます。女性が琉球、男性が日本、という見立て。「十九の春」とは琉球が日本に組み込まれたこと、「今さら離縁」とは進駐軍による占領、占領は如何ともしがたいと日本が言えば、復帰させる気がないなら早く言えと琉球。同じ国なのに会えないのはつらいと日本。「奥山育ちのウグイス」とは、世間知らず、あるいは自ら何もできない琉球のことだというわけです。
本竹裕助のオリジナル「十九の春」        出典:youtube.com

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