2020年10月20日火曜日

喜劇王

「あなたの最高傑作は?」と聞かれた喜劇王チャーリー・チャップリンは、「Next One(次回作)」と答えたという伝説があります。茶目っ気たっぷりとも、商売上手とも取れますが、私には、生真面目な映画人チャップリンの向上心の現れのように思えます。

チャーリー・チャップリンは、1889年、俳優夫婦の次男として生まれます。誕生直後に親は離婚。母親に育てられたチャップリンは、母親の代役として5歳で舞台に立ちます。その直後、母親は精神を病み療養所に入れられます。残された兄と幼いチャップリンは、手間賃仕事をこなしながら生きていきます。この時の経験が喜劇王チャップリンを作ったとも言われます。10歳で劇団に参加し、20歳前には人気俳優になっていたそうです。

アメリカへ巡業した際、無声喜劇映画の帝王マック・セネットの目にとまり、キートン・スタジオ入りしたのが24歳の時。ほどなく山高帽、ちょび髭、タイトな上着、ダブダブのズボンとドタ靴という独特のスタイルを生み出し、超売れっ子となります。デビューから、わずか3年で、チャップリンは、監督・脚本もこなすようになり、年収は、米国大統領の7倍を超えたと言います。そして第一次大戦特需を背景にローリング・トゥエンティーズ、狂騒の20年代を迎えると、チャップリンの映画はアメリカのみならず世界中で大ヒット。世界で知らぬものとていない映画人となりました。

市井の人々や虐げられた人々に対する目線はチャップリン映画の特徴です。笑いとペーソスという表現は、チャップリンの作風を語る際によく使われます。30年代以降、それはさらに純化され、ヒューマニズム、社会の矛盾、あるいは反戦が、チャップリン映画のテーマとなります。それが、冷戦を背景に1948年から本格化した赤狩りの餌食となります。容共的と判断されたチャップリンは、1952年、事実上の国外退去となります。アメリカ国民は政府を激しく批判しましたが、決定は変わらず、チャップリンは、スイスで隠居に近い生活を送ります。

1972年、チャップリンは、アカデミー名誉賞を受賞するために、20年ぶりに米国の土を踏みます。授賞式で舞台袖から登場した喜劇王を、会場はいつまでも終わらぬスタンディング・オベーションで迎えます。その際のチャップリンの感極まった表情は、彼のいかなる演技よりも強く印象に残りました。喜劇王の波乱に満ちた人生が凝縮されたかのような表情でした。そして、会場の全員が、チャップリン永遠の名曲「スマイル」を合唱し、彼の功績を称えます。涙無しには見れない最高のシーンでした。(写真出典:amazon.co.jp)

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