2020年10月22日木曜日

憂国

 1945年8月15日早朝、陸軍大臣阿南惟幾は、終戦の玉音放送を聞くことなく、自宅で割腹自殺します。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と書かれた半紙が、血のあとも生々しく残されていました。千年続いた武家社会が終わりを告げた瞬間であり、阿南惟幾陸軍大将は最後の武士であったと思います。

それから25年後の11月25日、 三島由紀夫と盾の会は、自衛隊市ヶ谷駐屯地の東部方面総監部を不法占拠します。三島は、バルコニーから自衛隊員に決起を呼びかけた後、 割腹自殺します。 ニュースは、 全国に衝撃を与えます。 私も 驚きはしましたが、 三島ファンとして、その行動は理解できないものではありませんでした。 国としての心と形を失った漂流国家日本を憂い、 国民に警告を発するための行動だったと理解します。いわば、 一死以て憂国を問う、 ということでしょうか。

それは、まさに三島の大義でした。バタイユではありませんが、人間が連帯感を求めて生きるのだとすれば、大儀に殉ずることは最上の死に方であり、エロティシズムの極致です。加えて、戦中派の独特な死生観があります。秩序や価値観の崩壊とともにアイデンティティの危機に直面したアプレゲール(戦後派)、あるいは変化を受け入れず過去の価値観に拘泥するアヴァンゲール(戦前派)とは異なり、戦中派は、一度死を覚悟して、死ねなかった人々です。おのずと死との向き合い方が、他の人々と異なります。

死と向き合った結果としての行動は、人によって異なります。ただ、多くの戦中派は、潜在的に、死に時、死に場所を探していたように思えます。高級官僚の家系に生まれ、学習院高等科主席卒業、東大法学部卒業というエリートであった三島も、例え天才的文学少年だったとしても、その傾向は同じだったのでしょう。さらに病気のために出征できなかったことに、家族は喜んだにしても、本人は「死ねなかった」という思いを強く持ったはずです。大義に殉ずるという解きがたいマインド・コントロールにかかっていたとも言えます。

三島の憂国論や”国体”という言葉は、極右思想や軍国主義と同列に見られる傾向があります。明治維新の際、薩長が中央集権化を進めるために打ち出したのが国体論であり、帝国陸軍が上手に利用したとも言えます。だからといって国体と軍国主義を同一のものとして批判することは間違いだと思います。国体を、国の、そして国民の拠って立つところと考えれば、国体の無い国など国として成りたたないとも言えます。三島の死から50年。マスコミに三島特集が組まれています。その美しい文体を語るだけでなく、国体を議論するきっかけもなってくれれば、と思います。(写真出典:zakzak.co.jp)

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