大学で経済思想史のゼミに参加し、ネオ・リベラリズムを学びました。テキストには、ミルトン・フリードマンの「資本主義と自由」を使いました。公害に関する記述が一切ないので、フリードマンに手紙を出して、見解を聞こう、という話が盛り上がりました。私は、聞くまでもないと思いました。企業の公害対策は、短期的には利益を圧迫するが、それを行わないことによって、長期的には、社会的批判や訴訟を受けるリスク、あるいは存続自体が危ぶまれるリスクも想定される。よって、企業は公害対策を行う。フリードマンは、こう答えるはずです。結局、手紙は出しませんでした。
経済学は、利益だけで判断するホモ・エコノミクスという架空の人間を想定して、モデルを組みます。社会科学としては、正しいアプローチだと思います。ただ、現実の人間は、判断ミスもあり、感情的判断も行います。また、合理的判断を重ねても合成の誤謬に陥ることもあります。先進国では鎮静化した公害ですが、世界的に見れば、まだまだ大問題です。人種差別等も同様ですが、なかなかネオ・リベラリズムが想定したように現実は動いていません。フリードマン先生なら、変わりつつあるじゃないか、と言いそうですが。
久々に、スティーブン・ソダーバーグ監督の「エリン・ブロコビッチ」(2000年)を見ました。法律知識もないシングル・マザーが、公害訴訟で史上最高額の和解金を獲得した実話です。アメリカ人の大好きなアメリカン・ドリーム系の映画であり、大ヒットしました。主演のジュリア・ロバーツはアカデミーを獲得する等、その演技が高く評価されました。本質的には重い話ですが、彼女の軽さとソダーバーグの軽妙な演出が大ヒットにつながりました。モデルとなった公害は、六価クロムによる水質汚染ですが、60年代に始まっています。公害問題の多くは、60~70年代に表面化しています。公害は、工場等による直接的な人体や環境への影響を指します。おおむね産業革命以降、人間の強欲と科学技術の進化とともに拡大してきました。先進国では、多くの犠牲を払いながらも、法的整備が進み、改善が進みました。しかし、対応できたのは個別の汚染j事案であり、温暖化、核による汚染、マイクロ・プラスティック等、地球規模での”公害”については有効な対策が打てていない状況にあります。工業に限らず、食品公害とも言える食の安全についても、同じことが言えます。やはり産業革命以降、食品安全問題が多く起こってきました。法や行政の対応によって、食の安全はおおむね守られています。しかし、例えば、南北アメリカや中国で栽培が進む遺伝子組み換え作物等、まだ評価が定まっていないものもあります。
科学技術の進化によって、人間は豊かな生活を享受してきました。しかし、反面、その豊かさと同程度の厄災を抱え込んできた歴史ともいえるのではないでしょうか。自然界に存在しないものを作り出すことは、利便性と環境的悪影響の両面があるように思えます。いわば広義の公害であり、見えない公害とも言えそうです。新たな素材や化成品等を作り出す場合、両面性があることを前提として、法体系を整備すべきと考えます。例えば、製品認可の際、考えられる人体や環境に対する悪影響のみならず、その完全な消滅法まで含めて評価すべきではないかと思います。(写真出典:amazon.co.jp)