2020年10月17日土曜日

偽作の動機

偽書も様々ありますが、ここでは歴史資料系、つまり歴史を変えるような内容の偽書について書きます。そもそも歴史資料は、古いものほど真贋の判断が難しいようです。多くの偽書は、写本とされ、原典は失われているとするものが多く、物理的な時代判定は不可能です。設定が古いほど、参照できる記録や物証も乏しく、確定している歴史との齟齬、あるいは固有名詞や表現に後世のものが含まれていないか等が判定基準となるようです。学会で、しばしば意見が分かれるのも頷けます。

偽書と判定されたものには、歴史ロマンをくすぐる魅力的な代物が多いようです。歴史に"If"はない、と言われますが、偽書は"If"や仮説のかたまりです。偽書が魅力的である理由は、ある意味、皆の夢が詰まっているからだと思います。ただ、私が不思議に思うのは、その作成動機です。例えば、古事記や日本書紀以前の歴史を偽作しようとすれば、ほとんど記録や参照資料がないので、偽作しやすいとも言えますが、真書に見せるためには、深く広い専門知識と膨大な作業を必要とします。ましてや神代文字で記述された偽書は、文字の創作から始めるわけで、気が遠くなる作業です。しかし、そのとてつもない努力に見合う報酬は何なのでしょうか。少なくとも金銭とは釣り合いません。

自分の家系等に箔をつけたい、というのなら分かりやすい動機です。天地開闢から推古天皇までの歴史が書かれた「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」、いわゆる旧事記は、古事記よりも物部氏に関する記載が多く、物部氏の復権、権威付けがねらいと言われます。また、キリストの墓やモーゼ渡来地等で世間を騒がせた「竹内文書」は天津教の経典ですが、その作成動機は天津教の箔付けなのでしょう。ただ、例えば、日本が中国に文字や農業を伝えたとする「上記(うえつふみ)」、あるいは朝廷と敵対した北奥羽の歴史が記載された「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」等に至っては、動機不明に近いものがあります。

「東日流外三郡誌」全600巻は、和田喜八郎の自宅の屋根裏から見つかったとされます。この時点で、既に胡散臭さ満載です。和田は、若いころ、古い仏像等を発掘して注目を集めています。近親者に問い詰められ、偽作と白状しますが、世間に知れることはなかったようです。ちょっとした成功体験と言えます。世間の注目を集める快感が忘れられなかったのか、偽作をなじられたことから世間を見返したかったのか、いずれにしても、膨大な作業量に見合う動機だったのでしょうか。もはや病的な印象すら持ちます。歴史資料などと言わず、歴史大作小説として発表していれば、和田喜八郎は、歴史に残る作家として、名誉も金も手にできただろうと思います。

「東日流外三郡誌」は出版されています。出版元の宣伝文には「すべてを否定することは難しい」とあります。偽書とされたことを逆手に取った素晴らしいキャッチコピーだと思います。ある意味、偽書の本質を見事に表現しているように思われます。(東日流外三郡誌 写真出典:asios.org)

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