2020年10月16日金曜日

黒塚

能楽「黒塚」は、15世紀中葉に初演されています。安達ケ原の鬼婆の物語は、その頃までにはよく知られた話になっていたのでしょう。奈良時代、熊野の阿闍梨東光坊祐慶が、一夜の宿を求めた岩屋で鬼婆に襲われるが、如意輪観音がこれを成敗、祐慶が供養して成仏させたという話です。鬼婆の墓が黒塚、祐慶が供養のために建てたのが観世寺、寺には鬼婆の岩屋とされるものも残っています。いづれも福島県二本松市に現存します。

有名な話ですが、実はこれは話の後段であり、前段が存在します。能楽等の影響で、後段だけが有名になったのでしょう。都の公家屋敷で乳母を務める岩手が、世話をする姫の重い病に人の胎児の生き胆が効くと聞き、生後間もない実の娘を残して旅に出ます。長旅の果てに安達ケ原に着き、岩屋で妊婦を待ちかまえます。そこへ現れた身重の若妻と夫。夫が薬を買いに出た隙に、岩手は若妻を殺し、胎児を得ますが、若妻が身に着けていたお守りに気づきます。それは都を出るとき、我が娘に与えたお守りでした。精神錯乱に陥った岩手は、以降、旅人を食べる鬼婆になりました。

安達ケ原で猟奇的な事件が実際にあり、言い伝えになったのかも知れません。前段は、後付けではないかと思われます。ただ、全体を通しで聞けば、前段こそ話のメインだとしか思えません。菅原伝授手習鑑のセリフではありませんが、すまじきものは宮仕え、ということでしょうか。恩ある菅丞相の子の身代わりとして我が子の首を差し出す松王丸とは状況は違いますが、宮仕えのために我が子が犠牲になったわけです。思えば、日本の高度成長期には、企業戦士たちの家族が、結構、犠牲になっていたようにも思います。今も昔も、宮仕えはすまじきものなのでしょう。

ちなみに、安達ケ原の鬼婆の伝承地は、二本松以外にも複数あります。最も有力な対抗馬だったのは、埼玉県。一時期、福島県と本家争いをしていたようです。ただ、昭和初期、未開の地だと思われることは不名誉だとして、自ら身を引いたそうです。ま、鬼婆伝承も悪いことばかりでもないとは思います。能楽「道成寺」について書いた際にも、蛇女はいても蛇男は聞かない、と言いましたが、鬼婆はいても鬼爺は聞きません。家父長制に対する潜在的脅威としての女性の現れなのでしょう。ただ、安達ケ原の鬼婆には特徴的なことがあります。それは鬼婆が、単に成敗されるのではなく、供養され、成仏しています。母親の子を思う気持ちへの敬意だと考えられるのではないでしょうか。(観世寺に残る岩屋 写真出典:bpspot.com)

マクア渓谷