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江川担庵 |
パンの日本への渡来は、 1543年と記録されます。種子島に鉄砲とともに伝えられました。 その後、 キリスト教の禁教令とともにパンの製造も禁止され、 広まることがなかったとされます。ただ、 当時の日本的食事のなかには、 パンの居場所が無く、 一般化しなかったというのが実際のところだったと思われます。 稲作が困難だった寒冷地や山間部に伝わっていれば、 根づいていた可能性もあります。江川担庵の兵糧パンを別として、商業ベースのパンの製造は、1860年、横浜の外国人居留地にオープンした日本初のホテル、横浜ホテルで始まっています。
江川担庵は、蘭学を学んでおり、早くから海防の必要性を訴えていたようです。高野長英、渡辺崋山等の蘭学者が集った尚歯会にも参加しています。また、西洋砲術の高島秋帆にも弟子入りしています。 幕府は、西洋に対するに、西洋の知識を持って臨むという方針で蘭学者を重用しますが、保守派の抵抗も強いものがあり、せめぎ合いがあったようです。東京湾に残る台場は、江川担庵が作った砲台です。また、砲身を作るための反射炉も作りました。世界遺産に登録された韮山反射炉です。
また、江川担庵は、近代的な兵制の必要性も認識しており、領地である武州多摩で自ら西洋式の農兵を組織しています。後に、この地で、農民近藤勇が新鮮組を組成したのは、単なる偶然ではありません。また、農兵を訓練する際、気をつけ、前へならえ、右向け右、といった今に続く号令を作ったとされます。もとになったのは、高島秋帆から習ったオランダ式の号令だったようです。兵糧としてのパンという発想も、蘭学と農兵から生まれたわけです。
江川担庵は、明らかに日本の近代化に貢献した人です。幕臣にして蘭学者という立ち位置が重要なポイントなのでしょう。ただのパン祖ではありません。福沢諭吉は、英雄とまで言っています。にもかかわらず、知名度はいま一つと言わざるを得ません。一説によれば、名だたる国防論者としての江川担庵をGHQが教科書から排除したからとも言われます。それはそうかもしれませんが、江川担庵が、生涯変わらぬ攘夷論者であったことも関係していると思われます。蘭学者たちが、軒並み、開国論へと進むなか、一人海防論にこだわり続けます。江川家の拠って立つところである幕府という存在を超えられなかったのでしょうか。変革期にあっては、組織の壁を打ち破った者たちが、英雄として名を残すものです。(写真出典:ja.wikipedia.org)