小田急は、戦前からロマンスカーという言葉を使っていたようです。ただ、その当時は、固有名詞ではなく、正式にロマンスカーと命名されたのは戦後でした。ロマンスカーのルーツは、やはり戦前、新宿ー小田原間をノンストップで運行されていた「週末温泉急行」だとされます。1950年、小田急は箱根登山電車の箱根湯本駅への乗り入れを実現し、本格的に箱根開発に乗り出します。民間の鉄道事業は、阪急電鉄の小林一三が始めた宅地・レジャー一体開発が基本。小田急にとって、江の島と箱根の開発は、創業目的でもあるわけです。
1955年、小田急は、芦ノ湖畔の「山のホテル」を参加におさめ、ハイソサエティ向けのリゾート・ホテルとします。山のホテルは、1911年、三菱財閥の岩崎小弥太の別荘としてスタートします。そもそもは、欧州視察から戻った岩崎弥太郎が、古くからの温泉地である箱根を日本のリゾートにしようと発想したようです。小弥太の別荘は、火災で焼失後、ジョサイア・コンドルの設計で、アルプス風の石造りの建屋になります。それも関東大震災で崩れ、木造で再現。戦後に至り、ホテルとして開業しています。つつじで有名な庭は広大なものですが、それでも小弥太の別荘時代の半分以下だそうです。
高度成長期を迎えると、レジャー・ブームが到来します。ロマンスカーによる箱根観光も活況を呈するわけですが、例えば、社員旅行で大混雑の熱海とは多少異なる風情がありました。小田急は山のホテルを擁することで、別荘地箱根の高級感を維持することができたのでしょう。それがロマンスカーのステイタスや特別感につながったものと考えます。かつてほどではないにしても、山のホテルは、今でも上質感のあるいいホテルであり、高所得層のリピーターが客層の主体だとも聞きます。
21年春、小田急は、海老名にロマンスカー・ミュージアムをオープンする予定と聞きます。多くの鉄道ファンや子供たちが集まることでしょう。そして、おそらく高度成長期の企業戦士だった老人たちも多く訪れるものと思われます。(写真出典:excite.co.jp)