2020年10月2日金曜日

夢幻の如くなり

 人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け滅せぬもののあるべきか。

織田信長が好み、桶狭間の戦いを前にして舞ったとされる幸若舞「敦盛」の一節です。幸若舞は、14世紀、源義家の子孫とされる桃井直詮、幼名幸若丸が創ったとされる曲舞です。能楽の原型とも言われます。能と同様、武家に好まれましたが、江戸幕府の終焉とともに廃れました。現在、福岡県みやま市で復元保存されているようです。

下天とは、仏教に言う天界28層の最下層であり、そこでは人間界の50年が一日に相当すると言われます。つまり、人間の一生など下天ではわずか一日であり、夢や幻と変わらない、といった意味になります。ちなみに天界の最上層は、有頂天と呼ばれます。幸若舞では、一之谷の合戦で平敦盛を討った熊谷直実の言葉として歌われます。

木曽義仲に敗れた平家は、都から大宰府まで落ちのびます。都に入った義仲は、統治に失敗し、後白河法皇の命を受けた源頼朝によって滅ぼされます。この間に、勢力を盛り返した平家は福原まで進出、上洛をうかがいます。平家追討を命じられた頼朝軍は、福原挟撃を図ります。搦手の義経軍は、軍を二分し、義経は70騎のみを率いて難所鵯越を抜け、一之谷の絶壁の上に到達します。後背の絶壁を無警戒だった平家は、崖を逆落としに下った義経勢に蹴散らされ、海へと脱出していきます。

騎馬で船を目指す敦盛に、熊谷直実が追いつき「敵に後を見せるのは卑怯。お戻りなされ」と呼びかけます。潔く浜に戻った敦盛は、直実に組み敷かれます。首を搔こうとした直実が見たのは、我が子と同年齢の美少年。直実が「私は名乗るほどの者ではないが、武蔵野国の住人、熊谷直実」と名乗ると、少年は「ならば私は名乗らない。首を取ってから人に聞けば分かるだろう」と答えます。その凛とした対応に心打たれた直実は命を助けようとしますが、仲間が迫っており、やむなく「必ず私が供養しましょう」と約し、首を落とします。平敦盛、享年16歳。平家物語のなかで最もよく知られた段の一つです。

後に直実は、敦盛供養のために出家し、浄土宗開祖の法然の弟子となります。敦盛は、笛の名手として知られ、死に際しても、祖父が上皇から下賜された名笛「小枝(あるいは青葉の笛)」を帯びていたと言います。空海が中国から持ち帰ったというその笛は、敦盛の首塚のある神戸の須磨寺に保管されています。須磨寺を訪れた松尾芭蕉は「須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇」と詠んでいます。(須磨寺「青葉の笛」(右側) 写真出典:worldfolksong.com)

マクア渓谷