2024年6月23日日曜日

ZAPPA

1970年代、フランク・ザッパは、すでに伝説的存在でした。ただ、名前は知っていても、音楽はほとんど聞いたことがありませんでした。ヒット・チャートを賑わせるような音楽ではなかったからです。 それでも、たまに聞く機会はあったのですが、面白いとは思っても、自分の好きなタイプではないのでレコードを買うこともありませんでした。先日、2020年に制作されたアレックス・ウィンター監督のドキュメンタリー「ZAPPA」を見ました。よくあるミュージシャンのドキュメンタリーとは大いに異なりました。単なるロック・ミュージシャンとしてのザッパではなく、その希有な存在の全てを描こうとしていたからこそ興味深い映画になったのだと思います。

天才フランク・ザッパは、ジャンルを超越した作曲家にして前衛芸術家でした。自分の音楽を形にするために、身近にあったギターを手に取り、組成しやすかったロック・バンドという形を選んだだけなのでしょう。ザッパは「自分で書いた曲を演奏し、録音し、聞きたいだけだ。それを他人が聞きたいというのであればうれしい」と語っています。自身のバンドであるマザーズ・オブ・インベンションやマザーズのライブでは、常に新曲や新たに編曲された曲が演奏されていたようです。完璧を期すために、メンバーには高い演奏水準が求められ、長時間のリハーサルが行われていたようです。あたかもオーケストラの公演のようです。現に、ザッパは、ギターをタクトに持ち替えて、自作をロンドン・フィルやドイツのアンサンブル・モデルン等と演奏しています。

ザッパにとっては、オーケストラの指揮もバンドのライブとなんら変わらぬ音楽活動だったのでしょう。彼の曲は、今でもオーケストラで演奏されています。ザッパは現代音楽の作曲家として認知されているわけです。ザッパのジャンルを超えた音楽は、レーベルの営利主義と対立し、ロック・ミュージシャンとしては初となる自身のレーベルも設立しています。また、議会が、CDのレーティング導入に動いた際には、検閲であるとして反対の声をあげ、参考人として議会で証言もしています。議会に敵対し仕事を失うことを恐れたミュージシャンたちが口をつぐむなか、ザッパは身を挺して表現の自由を守ったわけです。自らのレーベルを持っていることも強みでした。ザッパは大統領選出馬に意欲を見せたことがありますが、この問題が契機となったものと思われます。

ザッパは、正式な音楽教育を受けていません。音楽活動は、高校時代のR&Bバンドのギター担当に始まっています。ただ、興味深いことに、その頃からエドガー・ヴァレーズやアントン・ヴェーベルンの現代音楽もよく聴いていたようです。また、許可を得て大学で和声の講義を受けたこともあるといいます。高校を卒業すると、大学には席をおいただけで、バンド活動、録音スタジオ経営、作曲等に勤しみ、19歳でオペラの作曲も行っています。1965年、25歳のおり、ヴァーヴ・レコードと契約し、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションとしての活動を開始します。翌年にはデビュー・アルバム「フリーク・アウト」が2枚組でリリースされます。ロックにおける最初のコンセプト・アルバムとして知られます。

映画は、1991年、チェコでのソ連軍撤退を祝うライブの模様から始まります。ザッパは、熱狂的な歓迎を受け、異様な盛り上がりのなかでギター・ソロを披露します。ビロード革命で民主化を成し遂げる以前のチェコでは、ザッパの音楽は禁止されており、反体制の象徴として地下で広がっていました。チェコの人々にとって、ザッパは自由の象徴だったわけです。ある意味、チェコの人々は、ザッパの本質をよく理解していたとも言えます。カウンター・カルチャーというマントを翻しながら荒野を一人歩んできたというイメージがザッパを伝説的存在にしているのでしょう。しかし、マントの下の生身のザッパは、スタートから終始一貫、誰に媚びることもなく、ひたすら頭の中で鳴り響く音楽を形にすることだけに執着し続けた生粋の作曲家だったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷