2025年11月12日水曜日

ヤシの木にプール

NHKのETV特集で「POP 大滝詠一 幸せな結末」という番組を見ました。大滝詠一は、いわゆるJ-POPという地平線を切り開いた巨人だと言えます。我々の世代にとっては、同時代の音楽や文化を決定づけた人です。大滝詠一以前の大衆音楽は、歌謡曲と洋楽に区分されていました。彼は、そこに日本語のポップ・ミュージックという新たなジャンルを創設します。個人的には、ジャズやR&Bに狂っていたので、彼のレコードを買ったこともなければ、好んで聴いていたわけでもありません。しかし、音楽に限らず、大滝詠一が提供してくれたポップ・カルチャーが、我々の文化や感性を形成してきた面は大きいと思います。彼の楽曲を聴くと、とても幸せな気分になります。 

大滝は、1948年、現在の岩手県・奥州市江刺に生まれます。小学5年の夏、コニー・フランシスの「カラーに口紅」を聴いて衝撃を受け、以降、アメリカン・ポップの世界にのめり込みます。釜石の高校を卒業し東京で就職しますが、すぐに退社して音楽活動に入ります。1970年には、細野晴臣、松本隆、鈴木茂と伝説のバンド「はっぴいえんど」を組んでデビューします。1971年には、名曲「風をあつめて」を含むアルバム「風街ろまん」をリリースしています。しかし、フォーク・ロック調の楽曲は注目されることもなく、知られることもありませんでした。70年代中頃になって、その完成度の高さがじわじわと評価されていきます。私がはっぴいえんどの存在を知ったのは芸術雑誌の「ユリイカ」でした。松本隆の「風をあつめて」の詞が取り上げられていたのです。

はっぴいえんど解散後、大滝はCMソングの制作や若手のプロデュースなどを行います。山下達郎をデビューさせたことは有名です。また、福生にスタジオを作り、自らのプライベート・レーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立します。そして、1981年3月には、作詞に松本隆を迎えて、ソロ・アルバム「A LONG VACATION」をリリ-スします。発売直後は低迷したものの、徐々に売上を伸ばし、結果、オリコン初のミリオンセールス、年間売上第2位を記録しています。それどころか、今も売れ続け、累計で200万枚を超えるロング・セラーとなっています。ジャケットは、青い空、プール・サイド、ヤシの木、白いビーチ・パラソルが描かれた永井博のイラストでした。この大滝詠一、松本隆、永井博のセットが、時代の空気を作ったと言えます。

大滝は、積極的に楽曲提供も行い、松田聖子「風たちぬ」、森進一「冬のリヴィエラ」、小林旭「熱き心に」、薬師丸ひろ子「探偵物語」等は大ヒットします。ヒット曲の多くがCMとタイアップしていることでも知られます。また、吉田美奈子、シリア・ポールが歌い、後にラッツ&スターで大ヒットした「夢で逢えたら」は、日本で最も多くカバーされた曲でもあります。大滝の音楽は、50年代アメリカの豊かさを象徴するポップ音楽がベースであり、ゆえに多幸感をもたらすのだと思います。その多幸感が、高度成長期を経て、豊かになった日本社会にフィットしたと言えるのでしょう。若者には、輸入雑貨、ドライブ、サーフィン、リゾート、海外旅行等々が大人気でした。音楽の世界でも、演歌中心だった歌謡曲の時代が終わり、Jポップの時代が始まります。

海外の文化を我が物にすることは日本の得意技です。大滝が、アメリカン・ポップからJポップを生み出したことは、かつて漢字から仮名文字が編み出されたことに似ています。また、70~80年代、豊かな時代を迎えたと言っても、改革開放後の中国が拝金主義に流れたのとは大違いで、生活の中でささやかな夢を見ていただけのように思います。大滝の音楽や永井博のイラストは、そうした日本の特性をも反映しているように思います。2013年暮れ、大瀧詠一は、突然、動脈瘤で亡くなります。享年65歳。時代が切り替わったことを象徴しているように思います。最後のレコーディングは、竹内まりやとデュエットした「恋のひとこと(Somethin' Stupid)」でした。フランク・シナトラ、ナンシー・シナトラ親子が歌った1967年の大ヒット曲です。大瀧は、何のアレンジも加えず英語で歌っています。カバーというよりもコピーそのものです。それは過ぎた時代への惜別の賦でもあったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

ヤシの木にプール