監督:アリ・アスター 2025年アメリカ
☆☆☆
(ネタバレ注意)
単純なテーマを、やや雑なプロットと饒舌なスケッチで冗漫に描いた映画といった印象です。アリ・アスターの饒舌さと冗漫さは、「ミッドサマー」や「ボーはおそれている」でも感じました。ただ、「へディタリー」や「ミッドサマー」は直線的な映画だったので気にならなかったのですが、今回は、役者も揃え、演出の腕も上っているのに、やや気になりました。彼の映画は独特な勢いが魅力なのですが、その映画文法は、我々の世代にはピンとこない面があります。ゲームやSNSで育った世代とのギャップなのでしょうが、皮肉なことに本作はSNSを批判的に描いています。本作のテーマは、世間がSNSに翻弄されている間に巨大IT資本が世界を支配しつつある、という陰謀論の一種なのでしょう。モティーフは、コロナ、BLM、ネイティブ・アメリカン、陰謀論、ネットカリスマ、極左など、2020年当時のアメリカの分断を象徴するものがてんこ盛りです。分断の要因となっている格差、差別、宗教、政治、民族対立などは、どこの国でも、いつの時代にも存在します。アメリカで、それらを大いに加速させ、暴力的なレベルにまで押し上げたのが、SNSとトランプだと思います。トランプのチェリー・ピッキングやガスライティングといった手法は、政治の世界では昔からありました。ただ、そうした手法を得意とする政治家はキワモノに過ぎず、熱狂的支持者は生んでも、マジョリティーをとることはありませんでした。ましてや大統領にまでなることはなかったと思います。恐らく、それを実現したのもSNSだったということなのでしょう。
本作において、アリ・アスターは、トランプには直接触れていませんが、市長選挙の様相がアメリカの政治状況を揶揄しているのでしょう。ストーリーは、市長選挙をメイン・フレームとして展開します。ストーリーとは関係なさそうなホームレスのロッジが登場しますが、実は、この家庭の問題を抱えるホームレスこそがアメリカ国民を象徴しているのでしょう。保安官がホームレスを射殺するところから、映画は急展開して暴力シーンに入っていきます。とりわけ、謎のアタック・チームの登場と撃合いのシーンは評価の分かれるところです。ゲーム世代へ媚びる必要もあったのでしょうが、唐突感は否めません。まるで、プロットを詰め切れず、謎の集団を登場させたような印象すら受けます。脚本は、もう少しがんばって欲しかったところです。
挑戦的ながらもやや退屈な映画にあって、ホアキン・フェニックスの上手さだけが光っていたようにも思います。まったくもって大した役者だと思います。思えば、アリ・アスターの前作「ボーはおそれている」でも、ホアキン・フェニックスだけが目立っている印象でした。保安官の神経質な妻役には、エマ・ストーンが登場し、映画に深みを与えています。脇を固める他の俳優たちも、なかなか達者な人たちを集めています。そのあたりにA24の看板監督となったアリ・アスターの力を感じさせますが、興業成績的には、前作「ボーはおそれている」と同じく大コケだったようです。企画が目白押しだというアリ・アスターですが、今後の制作は簡単には進まないかも知れません。まずは、本編の続編なる企画は消滅だと思います。
オーストラリア政府が、16歳未満のSNS禁止を法制化したことが話題になっています。利用者ではなく、運営企業側への罰則を伴う規制となっています。子供たちへの悪影響を考えれば、禁止したくなることは理解できます。ただ、本来的には、SNS、あるいはネット全般への法規制が議論されるべきだと思います。それが正攻法だとは思いますが、ネットの性格上、現実的な議論ではなく、当面、運営側の自主規制、あるいは、いたちごっこになることは覚悟の上で部分的な規制を打ちまくるしかないのでしょう。結果的には、使う側の倫理観に委ねざるを得ない面は否めません。だとすれば、判断力が未熟な世代への使用制限もありなのかも知れません。もちろん、ネット全般への規制の方法として、国家が莫大な費用をかけて検閲するという全体主義的手法もありますが、これだけは避けなくてはなりません。(写真出典:press.moviewalker.jp)
