2024年9月23日月曜日

ローレル・キャニオン

私が、初めてローレル・キャニオンを知ったのは、先日亡くなったジョン・メイオールのアルバム「ブルース・フロム・ローレル・キャニオン」(1968)でした。ミック・テイラーのブルース・ギターがいい味を出していますが、サイケデリックな曲も含まれており、時代を感じさせるアルバムでした。ローレル・キャニオンは、LAのハリウッド・ブールバードのすぐ北側に位置する自然豊かな山間の別荘地です。ハリウッド至近にも関わらず、街から隔離され、自然豊かだったことから、20世紀初頭から別荘地として開発されます。多くの映画スターや有名人が住みました。1960年代中葉以降は、若いミューシャンが多く集まり、自由に行き来する環境のなかでフォーク・ロックが生まれていくことになります。

アリソン・エルウッド監督の「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック(原題:LAUREL CANYON: A PLACE IN TIME)」(2020)というドキュメンタリーをAmazon Primeで観ました。フォーク・ロック、ウェストコースト・ロックには、あまり興味がないのですが、優れたミュージシャンや名曲も多いことは知っています。特に60年代後半から70年代前半には、一世を風靡したヒット曲も多く、懐かしく観ました。当時、ウェストコートのドンだったママス&パパス、フォークロックの元祖とも言えるバーズ、ウッドストックで大観衆をうならせたクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、史上最高のソングライターとも言われるジョニ・ミッチェル、現代を代表するフォーク歌手ジャクソン・ブラウン等々に加え、モンキーズまで登場しています。

ドアーズのジム・モリソンも住んでいたようです。ドアーズは、時代を超える音楽性の高さを持っており、明らかにローレル・キャニオン的ではありません。ただ、ジム・モリソンは詩人としても高く評価されていますから、理解できるような気もします。もう一人、驚いたのがスティーブ・マーティンです。穏やかな笑顔と嫌みのない笑いが大人気のトップ・コメディアンですが、かつて、ライブの前座として、バンジョー片手に皆を笑わせていたようです。その後、コメディ分野で多くの賞を獲得し、”サタデー・ナイト・ライブ”で大ブレークすることになります。いずれにしても、カウンター・カルチャーの時代、ローレル・キャニオンは新しい音楽と文化を象徴する場所だったわけです。

あまりにも大物すぎて、ローレル・キャニオン時代があったとは思ってもいなかったのが、リンダ・ロンシュタットです。ロックの殿堂入りも果たしたリンダは、病気で引退していなければ、今頃、大御所中の大御所になっていたと思います。彼女のバック・バンドから巣立ったのがウェストコースト・ロックの王様イーグルスです。花と麻薬でサイケデリックに彩られたミュージック・コミューンも、カウンター・カルチャーの終わりとともに変わっていきます。巨大な音楽ビジネスに取り込まれ、ツアーやアリーナ・ライブに振り回され、金を手にしたミュージシャンたちはローレル・キャニオンを離れていきます。最も大きな変化をもたらしたのは、1969年のチャールズ・マンソン事件だったと言います。マンソンもミュージシャンくずれでした。

ママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミン」(1965)が、ミュージシャンたちをローレル・キャニオンへと呼び寄せ、音楽の中心地をNYからLAへと移したのでしょう。そして、ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲し、映画「いちご白書」(1970)のテーマ・ソングになった「サークル・ゲーム」が、カウンター・カルチャーの次の時代を象徴していたように思います。ちなみに、映画は印象に残る駄作でした。原作は、コロンビア大の学生運動に関する学生の回想です。雑で甘い青春映画でしたが、時代的共感があったことはユーミンが曲を書いたことでも明らかです。州兵に包囲された体育館のなかで、学生たちが座って輪を作り、ジョン・レノンの「ギブ・ピース・ア・チャンス」を歌うラスト・シーンには涙したものです。なお、いちご白書とは、学生の意見などいちごが好きだと言っているのと変わらない、というコロンビア大学部長の暴言に基づきます。(写真出典:IMDb.com)

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