ラスプーチンからさかのぼること千年以上前、日本にはラスプーチンをしのぐほどの怪僧が登場しています。平将門、足利尊氏とならび日本三悪人の一人とされる道鏡です。三悪人とされるのは、いずれも天皇の位を脅かしたからです。河内弓削氏出身の道鏡は、法相宗の禅師でした。弓削氏は、弓を削る集団を率いて朝廷に仕えてきた家であり、天孫家につながる物部氏の傍系とされます。シベリアの農民で、読み書きもままならず、正式な僧ですらなかったラスプーチンとは大違いです。ただ、怪僧になっていく経緯は良く似ています。道鏡は、近江国保良宮で病を得た孝謙上皇を徹底的に看病し、加持祈祷を行ったことで、上皇の寵愛を受けることになりました。
孝謙上皇は、大仏建立で知られる聖武天皇と藤原氏初の皇后となった光明皇后の間に生まれた内親王です。6人目の女性天皇となった孝謙天皇は、藤原氏出身の光明皇后と藤原仲麻呂に支えられます。その後、孝謙天皇は、仲麻呂の娘婿・淳仁天皇に譲位して上皇になっていました。孝謙上皇と道鏡の関係に意見した淳仁天皇と仲麻呂は、孝謙上皇から敵視されることになります。追い込まれた仲麻呂は反乱を起こして斬首され、淳仁天皇も廃位させられ淡路島へ流されます。淳仁天皇は淡路島で病死していますが、暗殺であったという説が一般的です。孝謙上皇は自ら重祚して称徳天皇となり、歴史上、最も独裁的だった天皇として知られることになります。その間にも、道鏡は出世を重ね、ついには天皇を超える法王位にまで登り詰めます。
仲麻呂の乱の後、宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にすれば天下は泰平である、という神託が称徳天皇のもとに届けられます。しかし、確認のために宇佐八幡に派遣された和気清麻呂によって、この神託が虚偽であったことが曝かれます。和気清麻呂に都合の良い結果を持ち帰るよう事前に働きかけていた称徳天皇と道鏡は激怒します。和気清麻呂は左遷され、さらに流罪となります。事件の翌年、称徳天皇が崩御すると、道鏡は下野国に下向させられ、2年後、その地で亡くなっています。とは言え、道鏡は、流刑にも斬首にもなっていません。仏教振興面での貢献が評価されたとも言われます。称徳天皇の崩御で途切れた天武天皇系から、後継の光仁天皇の天智天皇系への移行という転換期にあって、種々行われたであろう激変緩和措置の一つだったようにも思えます。
称徳天皇の道鏡との関係については、高齢独身女性の色狂いといった下世話な説も多く、また、父親譲りの過度な仏教重視が言い訳になっていた面もあるのかもしれません。しかし、背景には、権力を巡る争いのなかで血筋に関わる葛藤があったのではないでしょうか。日本の支配階層は、天皇家と藤原家が二分してきたとも言われます。天皇の外戚として実権を握るという藤原氏の戦略は、人臣出身の初の皇后となった光明皇后に始まり、その子・孝謙天皇で形を成します。結果、藤原仲麻呂が絶大な権勢を振うことになりました。しかし、一方で、孝謙天皇には、天武天皇の直系という天皇家の血筋もあります。言わば孝謙天皇のなかには、二つの家を巡るせめぎ合いがあったも言えそうです。孝謙天皇は、天孫家の血筋を優先し、藤原氏の勢いを抑えるために道鏡を使ったという面があるのかもしれません。(写真:2020年に制作され西大寺に奉納された道鏡像 出典:mainichi.jp)