2024年9月21日土曜日

中秋節

昔、9月中旬にシンガポールを訪れた際のことですが、セントラルで夕食の約束があり、マリーナ・ベイから水上バスに乗りました。タクシーで行けば済むことですが、駐在員から、この時期は船がお薦めと言われて乗りました。驚きました。川の両岸に、形も色も様々なランタンが飾られ、まるで夜のディズニー・ランドをより華やかにしたような光景でした。ちょうど中秋節の直前だったわけです。国民の7割が中国系と言われるシンガポールでは、中国同様、大々的に中秋節を祝います。中秋節に欠かせないものと言えば、月餅です。翌日、セントラル界隈を散策すると、デパートやショッピング・モールは月餅であふれていました。中華圏には、中秋節に月餅を贈り合う習慣があります。

月と人間との関係は、天象崇拝、太陰暦、天文学、あるいは各国に伝わる月の伝説等からも分かるとおり、古くて深いものがあります。また、月を愛でるという文化も、いつから始まったことなのかは分かりませんが、古い歴史があるのでしょう。特に、太陰暦8月15日の満月は、中秋の名月、十五夜等として、古くから親しまれてきました。秋の澄んだ空気がゆえに、とりわけ美しいということなのでしょう。ただ、祝い事や祭りとしての中秋節は、秋の収穫との関係において盛んになったものと想像します。中国において、中秋という言葉の初出は、紀元前の春秋戦国時代末期に成立した「周礼」だとされます。漢代には月見が始まり、唐代に至ると定型化されていったようです。さらに、それが一般化したのは宋代だとされます。

中華圏における中秋節は、春節に次ぐ大きなお祭りだと聞きます。満月が円満、円満が団らんにつながり、中秋節は、家族が集まる一家円満の日とされているようです。月餅は、唐代には原型が誕生し、満月に寄せて丸くなっていったようです。人々が、月餅を贈り合うようになったはいつなのか明確ではありませんが、少なくとも明代には行われていたようです。元の圧政に苦しむ漢民族によって起こされた紅巾の乱が契機となり、明朝は建国に至りました。漢民族に一斉蜂起を呼びかける指示は、月餅のなかに隠され、中秋節に配られたという話が残ります。台湾でも、反清運動の際、月餅が連絡に使われていたとされます。一家円満の象徴でもある月餅ですが、為政者にとっては、いささか物騒な代物でもあるわけです。

中秋節に関する最も有名な伝承は「嫦娥奔月(嫦娥、月へ走る)」なのだそうです。昔、太陽が10個あったため、人が住めないほどに地球が熱せられたことがありました。 后羿という弓の名手が崑崙山から弓を放ち9つの太陽を撃ち落とし、世界を救います。西王母という女神が、褒美として不老不死の薬を后羿に与えます。后羿は妻の嫦娥と離れたくなかったので、薬を隠すように彼女に頼みます。ところが、ある日、后羿の弟子の蓬蒙が薬を盗もうとします。薬を守ろうとした嫦娥は、思わず飲んでしまいます。すると嫦娥の体は浮き、月へと昇っていきました。その夜の月はことに明るく輝き、そこに嫦娥の姿を見た后羿は、嫦娥が愛した庭で好物の果物を供え、嫦娥を祀ったという話です。これが中秋節の起源だということなのでしょう。

それにしても、中秋節の贈答品として大量に出回る月餅は、一家で食べきれる量ではないと思われます。過日、中国人の友人に、受け取った大量の月餅をどうするのか、と聞いてみました。まずは、月餅は日持ちが良いので、少しづつ家族で食べると言います。また、冷凍も可能なので、長期保存もするようです。一番、傑作だったのは、もらった月餅を他の家へ贈るという話でした。大量の月餅が、中国国内をグルグル回っている絵姿を想像すると、思わず吹き出してしまいました。ちなみに、月餅の通常サイズは6~7cmあり、大きなものです。これは家族で分け合って食べることを前提としているからなのだそうです。最近は、一人サイズのミニ月餅も多く売られています。ひょっとすると中国共産党の一人っ子政策が反映されたサイズ・ダウンなのかもしれません。(写真出典:jukeihanten.com)

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