2023年8月27日日曜日

テケテケ

サーフ・サウンドの元祖ザ・ベンチャーズは、1960~70年代に世界を席巻しました。特に日本での人気は抜群で、歌謡曲も多くリリースし、今でも日本ツアーを行っています。ベンチャーズは、1960年、メジャー・デビューとなった「ウォーク・ドント・ラン」をいきなりヒットさせます。その後も「10番街の殺人」、「ダイヤモンド・ヘッド」、「パイプライン」等々のヒットを飛ばします。60年代後半、日本で社会現象化したエレキ・ブームやグループ・サウンズ・ブームは、ベンチャーズとビートルズがもたらしたとされます。低音弦をスライド・ダウンしながらピッキングする”トレモロ・グリッサンド奏法”は、ベンチャーズの代名詞ですが、日本では”テケテケ”と称され、エレキ・ブーム全体を指す言葉にもなりました。

小学校高学年の頃、友人の家でベンチャーズを聞き、なんてカッコいい音楽なのだろうとシビれました。私の洋楽事始めです。我々の年代は、皆、似たような経験から洋楽を聴くようになったと思われます。おおむね年長の兄弟がいる友人たちから洋楽が広がっていったものです。ベンチャーズにシビれていると、友人の兄が来て、おまえら、もっとカッコいい曲があるぞ、とビートルズやストーンズを聞かされました。ほどなくラジオの深夜放送を聞くようになると、洋楽の世界はさらに広がり、ジミヘンやR&Bにハマってしまいました。同じ頃、エレキ・ブームが沸騰し、音楽は聞くものから、演奏して楽しむものへと変りました。私までもが、中古のエレキ・ギターを買いました。

当時、エレキの神様と言われたのが寺内タケシでした。10代でエレキ・ギターとアンプを自作した寺内は、米軍キャンプ等で演奏していました。1962年、当時、大人気だったロカビリー・バンドを結成しますが、すぐにエレキ・バンドに転じます。”寺内タケシとブルージーンズ”の誕生です。寺内が牽引したエレキ・ブームのなかからグループ・サウンズが登場したのが、1965年とされます。最初のレコードは、田辺昭知とザ・スパイダースの「フリフリ」でした。翌年には、ビートルズが来日し、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳」をリリースし、急速にブームは盛り上がっていきました。スカウトされたセミ・プロや素人バンドが、次々とメジャー・デビューしていきます。

多くのヒットが生まれ、なかには今も残る名曲もあります。ただ、彼らがレコーディングしたのは、レコード会社がプロの作詞家・作曲家に書かせた曲でした。バンドを始めた時、彼らが目指した音楽があったはずですが、ビジネスに組み込まれると、それらとはかけ離れた音楽をやらされたわけです。タイガースとテンプターズの登場で、ブームは頂点を迎えますが、音楽性の問題からメンバーの脱退や解散が相次ぎ、かつルックスだけのバンドが淘汰されたこともあり、ブームはわずか3~4年で消滅しました。グループ・サウンズとは、エレキ・ブームを背景に、レコード会社が仕掛けた商売に過ぎなかったわけです。しかし、解散したグループのメンバーの多くが、その後、音楽の世界を中心に活躍し、日本のポップスを進化させることにはなりました。

そういう意味では、グループ・サウンズの効用もあったわけです。音楽を目指す若者たちに、自分たちの音楽を追究することの大事さを教えてくれたという面もあります。また、ヨナ抜き音階の演歌中心だった日本の歌謡曲界に、ポップスを定着させた効果は大きかったと思います。1960年代は、世界的にカウンター・カルチャーの時代でした。エレキ・ブームやロング・ヘアーは、旧世代からすれば教育上好ましくない非行であり、厳しく批判されたものです。グループ・サウンズは、レコード会社が作りあげたブームとは言え、若い世代が古い価値観を打破していく効果はあったと思います。明らかに、日本のポップスの多様性はそこから生まれ、発展していったのだと思います。(写真:ザ・スパイダース「フリフリ」出典:amazon.co.jp)



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