2023年8月9日水曜日

エンジェルズ・ラダー

Angel's Ladderとは、雲の切れ間から、太陽の光が放射状に地上に降り注ぐ様子を言います。語源は旧約聖書にあり、雲の切れ間から注ぐ光に沿って、天使が天上と地上を行き来している夢を見たというヤコブの話に基づきます。ヤコブのはしごと呼ばれることもあるようです。また、レンブラント光線とも呼ばれます。確かに、光と影の画家であるレンブラントの絵には多く登場しているように思えます。先輩の一人は、ターナーの絵と言えば家族に通じるとも言っていました。気象学的には、薄明光線と呼ばれるようです。古代日本では何と呼ばれていたのかが気になり、調べてみましたが、よく分かりませんでした。

仏教には御光という言葉があります。一般的には後光と書き、仏や菩薩の体から出る光を指します。”後光が差す”という慣用句でも知られます。後光を彫像や絵画で表現すれば、光背ということになり、仏教に限らず、キリスト教でも用いられる表現手法です。形状としては、放射線状、円形、炎型などがあり、頭部後方が出ているもの、体全体の後ろから出ているものなど多様です。これはこれで興味深い表現ですが、薄明光線とは異なります。また、光芒という言葉もありますが、一義的には、彗星のように尾を引く一筋の光のことであり、やはり薄明光線を指す言葉ではありません。

日本の古代には、ダイレクトに薄明光線を指す言葉は無かったのではないかと思えます。当然のことながら、気象現象としての薄明光線はあったはずです。とすれば、古代の人々は、薄明光線に興味を持たなかったということになります。美しいとは思ったかも知れませんが、それにさしたる意味を見いださなかったという言い方の方が的確かも知れません。旧約聖書の世界と日本の古代では、”天”の捉え方が異なるということではないかと思います。天と地という二元論は、古代日本も含め、世界中どこにでもあります。ただ、天を、人知を越えた霊的存在と捉えるか、より物理的な場所と捉えるか、という違いはあります。

一言で言えば、宗教と神話・信仰、あるいは一神教と多神教の違いということになるのかも知れません。一神教における神は天上に存在しますが、天上とはどこかの上ではなく、霊的、抽象的、概念的な存在です。日本の天孫降臨に言う高天原も天上にあるとされます。ただ、高天原は、より物理的な側面が強く、神々が地上と同じような生活を営んでいます。ギリシャ神話も似ているように思います。つまり、より高次ではあっても、場所の違いと理解されているように思います。というのも、天孫降臨において最も重要なことは、天皇の先祖が天上の神であることであり、天上の天照大神に帰依せよということではありません。従って、高天原はどこかという議論も起こり、自称高天原が全国各地に存在しているわけです。

つまり、古代日本の人々にとって、薄明光線は、特段の意味を持つものではなく、単に太陽と雲との関係の一つに過ぎなかったのでしょう。旧約聖書の世界では、それが天上の神に関わる現象の一つとして認識されたというわけです。実は、虹に関しても同様な状況があります。古代日本には、虹という言葉は存在したようですが、虹を詠んだ和歌は皆無に近いと聞きます。一方、ノアの方舟が登場する旧約聖書創世記において、虹は、神と人間を含む全ての生き物との契約の証とされます。ありのままの花鳥風月を愛で、それらが織りなす妙を”いとをかし”としてきた日本文化ですが、”全ては神が作りたもうた”とする一神教では、全ての事象に意味がなければならないのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷