2023年8月22日火曜日

志怪小説

蒲松齢
”白い目で見る”と言う言葉は、冷たい視線、蔑むような態度を意味しますが、もともとは”青い目で見る”という言葉とセットでした。青眼は、うれしさあふれる視線を意味します。この言葉は、3世紀、中国三国時代の思想家・阮籍に由来します。阮籍は、世俗に背を向け、哲学論議、いわゆる清談をよくした“竹林の七賢”のリーダー格とされます。阮籍は、気に入らない人には白眼を向け、気に入った人には青眼を向けたとされます。政治や俗世を拒む姿勢の現れなのでしょう。いわゆる六朝時代は、戦乱の世であるとともに、宗教の時代とも言われます。竹林の七賢は、哲学、宗教を論じ、その具体例として、巷で語られている伝承や噂話をよく使ったとされます。それが、怪奇小説の先祖と言える”志怪小説” を生むことになります。

志怪小説とは、怪異なことを記すという意味で、民間に伝わる伝承や噂話を集めたものです。怪談の類いは、”本当にあった話”として語られることが多いわけですが、そもそも始まりからそのスタイルを持っていたわけです。また、当時の書籍と言えば、為政者の命で作成された歴史書が主であり、民間の話を書物にしたという点も画期的だったのでしょう。ただ、内容は、採録した話を簡略に記述したものであり、創作された小説とは大いに異なるものでした。”小説”という言葉は、荘子が、つまらない説と定義したことに始まるとされます。とすれば、志怪小説は、小説の元祖なのかも知れません。干宝の「捜神記」等が代表作とされますが、残念ながら原本は失われており、後の編纂本に、一部収録されるのみと言われます。

その後、唐代には、沈既済の「任氏伝」等、いわゆる伝奇小説が登場しています。志怪小説のシンプルな採録スタイルとは異なり、物語性を高め、登場人物の心情も描かれるようになります。エンターテイメント性が高まった背景には、唐の華やかな宮廷文化、あるいは科挙の制度によって民間の知識レベルが上がったことも挙げられています。ところが宋代になると、再び簡潔な採録スタイルに戻ります。宋は官僚の国であり、科挙や儒教が盛んでした。恐らく享楽的な読み物は嫌われ、教訓めいた話が好まれたのでしょう。そうした歴史的経緯も踏まえ、清代前期に登場したのが蒲松齢の「聊斎志異」です。怪異小説の最高峰とも、短編小説の最高傑作とも言われます。

聊斎志異が書かれた時期は、1670~1700年代初めと推定されています。原本には、約500編が収録されていると言われます。いくつかの写本もあったようですが、刻本は、1766年に全16巻として発刊されています。聊斎志異は、作者が没してから半世紀を経て世に出たわけです。六朝時代の志怪小説の復興とも言われるようです。神仙、妖狐といった内容は、確かに伝統的だと言えます。ただ、先立つ明代には「三国志演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」が書かれています。いわゆる中国四大奇書の時代を経て書かれた聊斎志異の文学的成熟度は、先祖である志怪小説とは格段の違いがあるのでしょう。江戸後期には日本にも伝わり、翻訳もされています。また、芥川龍之介、太宰治、佐藤春夫等々も、聊斎志異を翻案した作品を書いています。

聊斎志異の世界は、日本の怪談や欧州の怪奇小説とは大きく異なります。美しく、慎ましやかな女性が多く登場しますが、多くの場合、その本性は神仙、妖狐、あるいは幽霊ということになります。日本や欧州の場合、彼女たちは悪さを行い、主人公は恐れおののきます。聊斎志異に登場する誠実な男たちは、この世のものではない女性と幸せに暮らします。ただ、ちょっとしたことから、彼女たちの本性が明らかになるのですが、主人公たちは、恐れるのではなく、そのことを受け入れ、愛しく思い続けます。この日欧との違いは、恐らく道教がゆえに生まれるのでしょう。中国には、儒教も仏教もありましたが、最も影響力のある思想は、老子に始まる道教だと聞きます。不老長寿を理想として、神仙思想を説く道教の教えが庶民にまで浸透しており、聊斎志異の世界が生み出されているのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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