2023年4月26日水曜日

箙の梅

箙(えびら)
久々に、生田神社にお参りしてきました。神戸を代表する生田神社ですが、かつては中央区一帯を領地にしていたと聞きます。租税や使役を神社に納める領民は、神封戸、あるいは神戸(かんべ)と呼ばれたようですが、神戸の場合、それがそのまま地名になったわけです。日本書記によれば、生田神社の創建は201年ということになります。神功皇后が朝鮮半島へ出兵したおり、生田で船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れて、私をこの地に祀るようにと言ったのだそうです。延喜式には、神職が酒造りをしており、新羅の使者を神酒でもてなしたと記載されているようです。これが灘の酒造りの起源だとも言われます。天然の良港である神戸は、誕生期から海外との縁が深かったわけです。

生田神社の楼門の横には、梶原景季ゆかりの「箙(えびら)の梅」があります。箙とは、矢を入れて、背中や腰に携帯する武具です。1184年、一ノ谷の戦いの緒戦となったのが生田口の激戦でした。早朝、平家が守る生田口の陣に、梶原景時率いる源氏方が襲いかかります。戦いのなかで突出した景時の次男・景高が敵に囲まれると、景時は手勢を率いて敵中に突入し救出します。その際、今度は、長男・景季が敵中に取り残され、景時は再び、突入して救出します。世に言う”梶原の二度懸”です。その舞台となったのが、生田神社の鎮守の森あたりだったようです。敵に囲まれた際、景季は、手折った梅の花を箙に差し込み、そのまま奮戦します。激闘の最中の風流に、平家からも賛嘆の声が上がったと言います。

梶原景季は、一の谷の戦いで、平重衡を生け捕りにするという手柄を立てます。また、源義経が木曽義仲を打ち破った宇治川の戦いで、佐々木高綱と繰り広げた先陣争いは、後世の語り草となっています。武勲の誉れ高い景季ですが、和歌に優れた教養人でもありました。箙の梅のエピソードの背景には、和歌に長けた景季という評判があったのでしょう。都暮らしの平家の人々にとって、農民あがりの東国侍は嘲笑の的だったと思われます。それだけに景季の風流は驚きだったのでしょう。とかく評価の高い景季ですが、その父・景時の評判はすこぶる悪く、「讒言の景時」とまで呼ばれます。源頼朝の信頼厚い武将でしたが、その讒言で、多くの者が失脚したとされます。その最たる例が、源義経ということになります。

頼朝亡きあとも、二代将軍・頼家に仕えていた景時ですが、ある御家人を讒言すると、多くの御家人の反感を買い、ついに失脚します。北条家が編纂した幕府の史書「吾妻鏡」では、多年の積悪が遂に身に帰した、ということになります。しかし、別な文献では、景時が讒言したのは、頼家を廃して、その弟・実朝を将軍にする陰謀だったとされます。その影には北条がいました。そして、その謀反は実現されています。つまり、吾妻鏡以降の景時の悪評は、陰謀に気づかれた北条によるプロパガンダだったというわけです。所領に戻った景時は、一族郎党を引き連れ、都に上ろうとします。駿河国で、在地の御家人と争いになった景時は、景季・景高ともども討たれています。これも、北条の差し金という説があります。歴史は、常に勝者の歴史というわけです。

元箱根の箱根神社第一鳥居の近く、旧東海道の横に”身替り地蔵”があります。ここを通りかかった景季は、景時と間違えられて襲われます。その際、この地蔵が身替りとなって刀を受けたために、景季は助かったという伝承があります。地蔵には、確かに刀傷が残っているそうです。信じがたい話ではありますが、景季人気を物語っています。実は、景季の歌人としての一面は、景時譲りでした。景時の歌は、武家百人一首にも選ばれています。武芸にも内務にも長けていた景時は、頼朝から大目付のような職責を与えられていたという見方もあります。讒言も職務のうちだったのでしょう。いずれにしても、北条が目の敵にしたのは景時であり、人気者の景季まで悪しく言うことは得策ではない、という判断があったものと想像できます。(写真出典:marutake.shop)

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