その後輩に、最も好きな城を聞いたところ、丸岡城との答えでした。丸岡城は、福井県北部にある現存12天守の一つです。かつては国宝とされていましたが、1948年の福井地震で倒壊し、指定が解除されています。その後、1955年に、もともとの部材を使って組み直されています。小ぶりながら、最も古い城郭建築の様式を持つとされる人気の城です。日本一短い手紙と言われる本多作左衛門重次の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」に登場する”お仙”とは、長じて丸岡城主となった本多成重の幼名です。さて、後輩からは、返す刀で、あなたの好きな城はどこか、と聞かれました。いくつかお気に入りの城はあるのですが、それぞれタイプも異なり、一つ選ぶというのはなかなか難しいものです。
結局、私は、伊予松山城と答えました。伊予松山城は、松山市の中心部にそびえ立つ勝山の上に築かれた、いわゆる連立式の平山城です。別名、勝山城、あるいは金亀城とも呼ばれます。天守は、幕末に再建されており、現存12天守のなかでは最も新しいとされます。江戸初期の武家諸法度によって、新たな城郭建造は禁じられ、修理も幕府の許可が必要となります。そのなかで、天守の再建が認められたのは、伊予松山藩が親藩であり、葵のご紋を掲げる松平家の居城であったためなのでしょう。ちなみに、戊辰戦争においては、親藩として幕府方についたために朝敵とされます。ただ、鳥羽・伏見の戦い直後に、戦うことなく城を土佐藩に明け渡し、かつ朝廷に多額の献上金を納めます。これが評価されことから赦され、城も残りました。同じ賊軍ながら、徹底的に城を破壊された奥州越列藩とは大違いです。
伊予松山藩は15万石。頻繁に水害や干ばつに襲われ、財政的には厳しい状態が続いていたようです。そのなかでも天守の再建に際しては、最高級の木材と高度な技術が投入されたようです。天守を持つ城郭建築は、すべて安土桃山時代から江戸初期にかけての約50年間に建造されています。伊予松山城は、安土桃山時代の様式を、250年後の最新技術と最高の建材で再現した、いわば夢の建築だったと言えるのではないでしょうか。昭和初期まで、建造物は40棟あったようですが、その後、火災・落雷などで19棟を失っています。21棟が現存しているわけですが、これは二条城に次ぐ規模です。規模や壮麗さでは、江戸城、大阪城、名古屋城、あるいは姫路城等には及びもつきませんが、とても良い状態で、日本の城郭建築の真髄を見せてくれていると思います。
それにしても、徳川一族とは言え、なぜ幕府は、幕末の世情不安ななか、豊かでもない伊予松山藩に天守再建を許可したのでしょうか。天守が再建されたのは1852年であり、ペリー来航の前の年にあたります。情報収集能力が高かったと言われる幕府は、アヘン戦争に代表される東アジアの混乱を十分に知っていたはずです。西洋列強の船が、東シナ海から京都・大阪を目指すとすれば、伊予松山は、極めて重要なルート沿いということになります。幕府は、防衛的観点も踏まえて、再建を許可したのではないでしょうか。もちろん、天智天皇が、九州から瀬戸内一帯に対大唐防衛拠点を整備した時代とは大いに異なります。日本の首都機能は江戸にあり、かつ蒸気戦艦は、難なく太平洋を航行できます。従って、防衛的観点と言っても、念のため程度ではあったのでしょうが。(写真出典:ja.wikipedia.org)