2023年4月23日日曜日

山崎の百年

1970年代、海外旅行のお土産と言えば、洋酒と洋もくは必須品でした。洋もくとは、外国製のタバコです。洋酒は、主にウィスキーやブランデーを指します。喫煙や飲酒の習慣がない人も、こぞって購入してきたものです。いずれも関税が極めて高く、免税店と国内小売りとの価格差が大きかったからです。60年代末のことですが、酒を飲まない父親が、免税店でオールド・パーを買ってきて、皆に振る舞っていたことがありました。ボトルが空くと、父親は、サントリー・レッドを買ってきて詰め、酒飲みの叔父を家に呼びます。オールド・パーだ、ありがたく飲め、と言って飲ませます。一口飲んだ叔父は、レッドに似た味だと言っていました。酒飲みの舌もバカにしたものではありません。

本格的な国産ウィスキーは、1929年に発売された「サントリーウ井スキー」、通称”白札”、後のサントリー・ホワイトでした。明治期から、まがい物が国内で製造されていたようですが、1923年、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎は、スコットランドでウィスキー醸造を学んだ竹鶴政孝を迎え、北摂の山崎で本格的な醸造を開始します。ご存じの通り、竹鶴政孝は、後にニッカ・ウィスキーを創業しています。戦後の混乱期を過ぎた1950年、モルト混和率の低い3級ウィスキーが登場し、高度成長期にはウィスキー・ブームが起きています。サントリー、ニッカ、オーシャンがしのぎを削り、宣伝広告にも力が入ります。当時、サントリー宣伝部に所属していた開高健のコピーが、ブームに火を付けたとも言われます。

宣伝広告以外にも、トリス・バー、水割り、ボトル・キープといった日本独特の文化も生まれ、国産ウィスキーの消費は拡大していきます。ことにサントリー・オールド、通称”だるま”は、1981年時点で、世界トップの売上、国内シェア33%というお化け商品でした。ところが、1983年をピークに、ウィスキーの売り上げは急落、長い冬の時代に突入します。底となった2008年の売上は、ピーク時の1/5まで落ち込みます。その背景には、越乃寒梅に代表される地酒ブーム、白波のCMに始まった焼酎のお湯割りブーム、あるいは若者に広まった缶チューハイ等の存在があったとされます。多様化の時代を迎えたこと、酒税改訂、バブル崩壊が追い打ちを掛けたこと等も影響したのでしょう。

個人的には、海外旅行機会の増加や輸入食品の増加などで、日本人の舌が肥えたことも関係しているのではないかと思います。当時の欧州では、サントリー・オールドは、ウィスキーと認定されていないとも聞きました。いずれにしても、国産ウィスキーは厳冬期に入ったわけですが、各メーカーは進化を止めてはいませんでした。それが花開いたのは、2008年頃でした、きっかけとなったのはハイボールとクラフト・ウィスキーのブームでした。ハイボール・ブームは、サントリーが仕掛けました。クラフト・ウィスキーは世界的潮流でしたが、日本では秩父ウィスキーが先達となります。クラフト・ウィスキーのブームは、取りも直さずシングル・モルト・ブームでもありました。ここで、日本のメーカーが培ってきた品質の高さが世界に認められることになります。

いまやサントリーのシングルモルト・ウィスキー山崎・白州・響は、欧州でも高く評価され、原酒不足から高騰し、かつ入手困難となっています。今年は、竹鶴政孝が、山崎で醸造を開始してから100年ということになります。やはり、完成度の高い酒には、それくらいの時間がかかるということでしょうか。ちなみに、若い頃、新幹線の車窓からサントリー山崎工場を”発見”したときには驚きました。昔から、サントリーのCMで見てきた山崎工場は、うっすら霧がかかる山中深くに佇むといったイメージでした。ところが、実際には新幹線や高速道路に面しているわけで、何かだまされたように思いました。サントリーの宣伝上手は、折り紙付きです。サントリーが今あるのは、決して品質の高さだけというわけではありません。(写真出典:amazon.co.jp) 

マクア渓谷