2023年4月3日月曜日

うつけ

安土桃山城 大手道
歴史上、織田信長ほど人物評の振れ幅が大きい人はいないのではないかと思います。革新的で合理的、かつ一面では短気で残忍、といった革命家イメージは、司馬遼太郎の「国盗り物語」以降に定着したものだと言われます。江戸期には、徳川家康をあがめるために、対比的な暴君として喧伝されたようです。大正になると、天皇の威信を回復するために室町幕府を倒した尊皇の武将とされた時期もあったようです。「国盗り物語」では、高度成長を背景に、旧態を打破する姿が強調されたと言えます。いずれも、時の為政者や時代背景に都合良く合わせたイメージが伝えられてきたわけです。近年では、朝廷や幕府と協調した保守的武将という評価も出てきており、革新性についても疑問視されているというので驚きです。 

過日、初めて安土桃山城跡に行ってきました。安土桃山城は、信長が安土山に築いた日本初の天守を持つ城郭でした。安土山は、標高190mという低山ですが、なかなか急峻で、頂からは、琵琶湖、近江平野を一望できます。信長の居城であった岐阜城よりも京に近く、北陸道、東海道への睨みがきき、かつ琵琶湖の水運を活用できる優れた立地でした。安土桃山城は、六角氏の観音寺城を手本にしたという総石垣の城です。加工していない自然石を用いた野面積みは、比叡山麓を拠点とする石工集団・穴太衆の手になるものです。以降、穴太衆は多くの城の石垣を手がけていくことになります。もともと日本の山城は土塁作りでした。初めて城郭に石垣を使ったのは信長の岐阜城と小牧山城とされています。

天守を備えた安土桃山城は、以降、日本の城郭建築の基本形となります。城の中央部は吹き抜けという斬新な構造になっており、そこには宝塔が安置されていたと推測されています。信長は、欧州の城郭にインスパイアされて安土桃山城を築城したという話もあります。確かに、5重6階地下1階という高層建築、金色に輝く最上階、その下には朱塗りの八角堂という偉容は、日本の常識をはるかに越えていました。それは、もはや防御施設としての山城ですらなかったのかも知れません。安土桃山城には、桝形虎口や櫓といった後の城郭に見られる防御のための仕掛けがほとんどありません。信長は、安土桃山城を、防衛のためではなく、天下布武を目前にした政治的象徴として建造したとしか思えません。

その最大の証左が、摠見寺の存在ではないかと思います。摠見寺は、安土桃山城内に建造された七堂伽藍を備える臨済宗の寺院です。今も三重塔や二王門が残ります。城郭内に伽藍のある城など、他にはありません。比叡山焼き討ち、石山の戦いなどから、神仏を恐れぬ信長というイメージがありますが、あくまでも戦略上の必要から行ったことであり、当人は至って信心深かったわけです。ただ、大手道のごつごつとした石段には、石材として使われた石仏が多く見られます。建造時、多くの石材を集める必要があり、近隣の石仏も徴収されたのだそうです。さして信心深くない私ですら、踏む気にはなりません。石は石だ、という信長の合理性と言えますが、それ以上に、旧態に対する信長の挑戦的なスタンスをも感じさせます。

安土桃山城跡だけでも、十分に信長の革新性を認めることができるように思いました。ただ、革命家なのかと問われれば、やや異なるように思います。物事の本質を見極める合理的精神に富んだ革新的な武将ではあったのでしょうが、そのゴールとするところは、あくまでも天下布武であり、それ以上ではなかったと思われます。若い頃、信長は奇行が多く、周囲からは大うつけと呼ばれていたようです。恐らく、奇行のための奇行ではなく、合理性に根ざした行動だったのでしょう。いつの時代でも、常識に外れた行動が世間に理解されることはありません。思えば、時代を変えた人々の多くが、大うつけだったようにも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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