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科挙の試験場 |
いつの時代も大学等の入試は、受験者に大変な努力を強いてきました。種々の弊害も指摘され、それに応じた方法の改変も行われてきましたが、受験者数と合格者数とに差がある限り、厳しいことには変わりありません。最も過酷で、かつ社会的影響の大きかった試験に中国の科挙があります。6世紀末、隋の文帝によって、始められていますが、貴族の世襲制に替わって官僚制度の根幹として機能するのは10世紀の北宋の時代からでした。身分を問わず優秀な人材を登用する仕組みとしては、世界初の画期的なものでした。科挙は、1905年、清朝の西太后が廃止しています。元朝での中断はあったものの、実に1300年間も続いたわけです。テキストは儒学の「四書五経」のみであり、物心つくかつかいないうちに詰め込み教育が始まり、多くのステップを踏んで選別されましたが、合格する年齢の平均は、35~36歳だったようです。なかには朱子の19歳、蘇東坡の22歳といった驚異的な記録もありますが、老年に至るまで挑戦し続ける人たちも少なからず存在したようです。
少なくても30年くらいは受験勉強を続けるわけですから、家が裕福でなければ挑戦できません。また、そこまで挑み続けるのは、リターンが大きかったからでもあります。かつて高級官僚は、ピンハネ、賄賂と、存分に私腹を肥やせたものだそうです。ネポティズムも当然のことであり、一族郎党の期待も大きいものがあったのでしょう。科挙は、公平な人材登用というメリットとともに、その過酷さゆえの弊害、あるいは官僚の腐敗や硬直化というデメリットもありました。科挙の制度は、朝鮮半島でも取り入れられ、今もその影響が残ります。日本でも、平安時代に試行されましたが、短命に終わります。稲作、仏教はじめ多くの文化、そして律令等の統治体制をも大陸から直接、あるいは半島経由で取り込んできた日本ですが、科挙と宦官だけは取り入れていません。その理由は、王権の強さ、あるいは統治システムの違いにあると考えられます。
中国でも日本でも、王権は貴族たちによって支えられます。有力な貴族は、互いに争い、時には王権を奪取します。世襲制の貴族にとって、科挙は、存在を脅す厄介な存在です。王権が強まった隋では、貴族の力が弱まり、あるいは一層弱めるために科挙が導入されました。対して日本では、ヤマト王権が支配地域を拡大する過程で、有力な貴族が発生し、以降、その勢力が衰えることなく国家が形成されていきます。親政を布いた天皇も存在しますが、神でもあった天皇は、早い段階から象徴的な存在だったわけです。平安末期、貴族政治は武家に取って代わられますが、状況は変わりません。武力を力の源とする武家は、応仁の乱以降、下克上の世界を生み出します。日本は、科挙に依らず、優秀な人材が世に出る仕組みを持ったと言えます。
北宋以降の中国における教育とは、ほぼ科挙のために存在し、江戸期の日本において、学問とは教養でした。中国の教育は、限られた受験者たちのための儒学に限定され、日本の学問は、町人も含めた多くの者たちのための実学や多様な教養でした。これが、西洋文明を取り込んで近代化を進める際、結果的に大きな違いを生んだとも言えます。(写真出典:ja.wikipedia .org)