2021年5月17日月曜日

奇跡の十年

愛・地球博トヨタ館
名古屋へ赴任して、初めに驚いたことの一つが、歴史ある大都市にも関わらず、ほぼ屋台が存在しないことでした。その延長線上にあると思われますが、立ち食いの店も、ほぼありません。私は、大のきし麺ファンです。駅のホームには立ち食いのきし麺屋があり、美味しいのですが、街中には立ち食いがありません。東京では、小腹がすいた時、おやつ替わりに立ち食いソバを食べていたので、誠に残念でした。名古屋の人たちにも、なぜ、と聞いてみましたが、皆、キョトンとするばかりでした。名古屋人にとっては、屋台が存在しないことが普通なので、存在を前提とする私の質問にとまどったのでしょう。

私が推理した名古屋に屋台がない理由は、「お値打ち」文化との関係でした。名古屋人は、お値打ちという言葉が大好きです。例え10円でも、9円の価値しか無ければ、名古屋人はお金を出しません。ただ、100万円で101万円の価値があれば、ポンと払うのです。要するに、同じような値段であれば、屋内で座って食べるほうがお値打ちということなのではないか、と思ったわけです。まったく違いました。かつて名古屋は、伏見界隈を中心に屋台があふれていたようです。それが昭和48年に、市の条例で屋台禁止が打ち出されたのだそうです。理由までは分かりませんでした。当時の名古屋は急速な都市化が進み、モータリゼイションの波が押し寄せていたはずです。再開発や渋滞解消が背景にあったのでしょうが、屋台禁止とは、随分、極端な政策のように思えます。名古屋の近代化に対する思いの強さを感じます。

屋台禁止令から4年後、名古屋はオリンピック招致に動きます。名古屋が進めてきた都市の近代化の最終段階的な意味合いもあったのでしょう。おおよそオリンピック等の開催を機に、都市のインフラ整備は進みます。64年には東京でオリンピック、70年には大阪で万博、72年は札幌オリンピックと続き、次は名古屋という思い、あるいはあせりもあったのでしょう。結果、88年大会は、競合するソウルに決定します。いくつかの落選原因が挙げられていますが、64年東京、72年札幌と続いた後での日本開催は厳しかったと思います。名古屋は自信満々で、招致決定は確実と思っていたようです。それだけに落胆は大きく、街全体が沈んだようになったと聞きます。それが動機かどうかは明確ではありませんが、当時の仲谷愛知県知事は、ソウル・オリンピック開催を見届けるように自殺しています。

その無念の思いは、2005年の愛知万博開催へとつながりました。当時の経済状況等、あるいは環境をテーマとする初の21世紀型万博でもあり、失敗を懸念する声もありました。ただ、結果は、2,200万人の来場者を集める大成功。見事、オリンピックのリベンジを果たしたとも言えます。成功の背景には、名古屋奇跡の十年と呼ばれる経済成長がありました。バブル経済崩壊後の日本は、失われた20年、あるいは失われた30年とも言われる長い低迷期に入ります。ところが、名古屋だけは、多少異なりました。名古屋人は、伝統を重んじます。先祖伝来の土地を売るなど、ほぼあり得ません。東京等と違って、地上げはうまくいかず、バブル経済も生じませんでした。全国の金融機関やメーカーが、不良債権処理に追われるなか、無借金経営が特徴の名古屋企業では、順調に設備投資が進められました。プラザ合意後の円高で、企業体質も筋肉質になっていたこともあり、ものづくりの文化は、海外への直接進出拡大につながりました。

2008年春、中日新聞に、全3段抜きの大きな見出しが掲載されました。曰はく「章男氏副社長へ」。もちろん、豊田章男氏のことです。ただ、新聞の見出しとして名字抜きで「章男氏」だけというのには驚きました。愛知県の人には、それだけで通じるわけです。もう一つ、社長ならともかく、副社長昇進で、全3段抜きの見出しというのにも驚きました。尾張名古屋は城で持つと歌われますが、今やトヨタで持つということです。名古屋奇跡の十年は、トヨタが世界一へ昇りつめていく十年でもありました。(写真出典:ja.wikipedia .org)

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