2021年5月18日火曜日

都市の憂鬱

最近、観光地での立ち食い系グルメが増えているように思います。何でも串に刺して売っています。例えば、築地場外等では、インバウンドの観光客の増加とともに、串売りが増えました。日本の食文化のサンプラーとして人気です。また、鎌倉の小町通等は、若い人たちが気軽に、様々なものを少しづつ食べるという文化を作っています。ファストフード世代向きなのかも知れません。いずれにしても、これを「食べ歩き」と呼んでいる場合が多く、気になります。食べ歩きとは、名物料理を出す店等を複数訪ねることです。歩きながら食べることを言うなら、”歩き食べ”とすべきところだと思いますが、いまいち語呂がよくありません。なにかいい表現はないものかと思います。

戸外で食べれば、何でも美味しい、というのが私の持論です。キャンプでの食事、テラスや庭の縁台での食事、BBQ、縁日や観光地での立ち食い等をイメージしていますが、だいたい美味しく感じるわけです。屋外の空気が味覚に良い影響を与えるということであれば、庭に面した部屋の窓辺のテーブルでも同じはすです。これはこれで気持ちいいのですが、ちょっと違います。やはり屋内の食事なわけです。恐らく気持ちの問題であり、非日常性がポイントなのでしょう。屋内で、食卓に向かい、食器に盛り付けられた食事を食べる、という日常があればこそ、屋外での食事や立ち食いが魅力的になるわけです。では、キャンプの魅力も非日常性にあるのかと言えば、それだけではないように思います。

登山等で必要に応じて行うキャンプではなく、キャンプそれ自体が目的の場合、その魅力の源泉として、非日常性は大きいと思います。ただ、それ以上に、自然の中に身を置くことが重要な要素なのではないでしょうか。古代ローマの時代から存在するという別荘も同じではないかと思います。世界中の別荘には、避暑・避寒という目的もさることながら、早くから保養という目的もあったようです。社会的分業や経済活動が拡大するとともに都市が生まれます。都市は、実に効率的な代物です。ただ、人間は、長時間、そこに滞在すると息苦しさを感じる傾向があるように思います。つまり都市は、非人間的な面を持っていると言えます。そこで財力のある者は、庭を作り、別荘を持ったのでしょう。また、レジャーとしての旅も同じです。単なる非日常性ではなく、自然への逃避という面もあるように思えます。

やはり、人間も動物なので、自然の中が一番心地よい、と言ってしまえば、それまでですが、気になるのは、都市の非人間性の背景にあるものです。人間は、自然の脅威から身を守るために壁を築きます。いわば自然を遮断することで、安全を確保するわけです。しかし、これは家屋の話であって、都市の特性ではありません。都市の歴史は、農耕とともに始まります。社会的分業が進むと、効率が求められ、より機能的な都市が構成されていったのでしょう。つまり、都市の本質は、組織化なのだと思います。都市に居住するほとんどの人間のは何らかの形で組織に組み込まれ、生活の糧を得て、暮らしています。組織の一員になることで、人間は、安全や生活の保障を得られるわけですが、同時に一定の制約を受け入れざるを得ません。都市の非人間性とは、草木が少ないことではなく、個人としての自由が制限されていることなのだと思います。

都市の束縛に対して、自然は自由の象徴なのだと思います。都市生活者が、キャンプに行く本質的な目的が、束の間、組織からの自由を実感することだとすれば、なにも自然のなかである必要はありません。都市が抱える歓楽街やダークサイドも、同様の効用があるのではないでしょうか。都市生活者が、多少の自由を味わうことで、人間としてのバランスを回復しようとする意図においては、キャンプもキャバクラも同じだということになります。魅力的な都市には、必ず、それなりのダークサイドが存在します。実は、それは都市にとって必要欠くべからざるものなのだと考えます。ただ、歓楽街でサービスを提供する側にも、昼の世界以上に厳しい組織社会が存在していることも事実ですが。(写真出典:buzz.ap.jp)

マクア渓谷